池田大作 日本経済乗っ取りの野望 1-2

−社長会記録の読解より−

金権体質の骨格形成と経済支配構想


草創期の創価学会

創価学会の独立性と戸田構想
幸福製造機=御本尊で折伏大行進
宗教法人設立と日蓮正宗制圧 暴力宗教のルーツ
金をとらぬ宗教≠ニいう詐術
暴力折伏で教勢拡張 参議院に進出
選挙で頭角、池田大作のリーダーシップ
大阪事件の真相 池田大作のつまづき
疑惑にみちた無罪判決

創価学会の独立性と戸田構想

戦前の創価教育学会、そして戦後間もない頃の創価学会は、日蓮正宗の中では、一風変わった「講」とみなされていた。  日蓮正宗では、長い歴史の中で、信徒の団体である法華講≠ェ本山や末寺の維持及び布教面で重大な役割を果たして来た。法華講≠ヘ、日蓮正宗という教団の特色の一つといって良い。  この、信者の団体である講°yびその在家の指導者である講頭%凾フ中心者と、寺院及び僧侶の間では、緊密な関係が存在するのが普通の姿だが、時には、布教・活動方針をめぐって対立や緊張関係が生じた。江戸時代に生じた「完器講」事件や、昭和四十五年から五十三年にかけて問題化した「妙信講」事件が、後者の顕著な事例である。  両者はいずれも、宗門の教義解釈、布教方針等に対して「講」の側が批判・反発し、造反した事例である。前者は、江戸幕府の寺社奉行の裁きで異流義≠ニされ、中心者は遠島などに処せられた。だが、その流れは、明治以後も細々と残存しているという。  後者は、昭和四十五年の言論出版問題の際、創価学会が東京都を通じ文化庁に提出した国立戒壇論≠ノついての解釈と、これを支持した日蓮正宗宗務院に対して異義をとなえ、実力行動をもって阻止しようとして破門された。  日蓮正宗としても、この「講」の扱いについては苦心しており、第六十五世堀米日淳上人は、次のような見解を表明している。 『我が国の仏教界に於て信徒の組織として採用してきました特徴ある制度は講中であります。此の制度が何時頃から始まって如何にして発達したものであるかは浅学の私は知りませんが想像すれば恐らく平安時代から盛んに行はれた御講の催しが漸次かゝる習慣を醸成しそうして宗教の社会性が能く此の傾向を助長したのではないかと考へます。  歴史の詮議だては措いて現在行はれてゐる講中に就いて考へて見ると此の制度はなかく価値のある立派なものと思はれます。本来講中は信仰の社会性の上に成立する組合であつて他の商工業の組合の如くに自家の擁護と対他的の必要の目的によつて存在するものでありません。換言すれば信仰の本質的要求として講中は存在の意義をもつて居るのであります。しかし此れは個人的に見た場合本来の意義でありますが宗門的に見れば、此れ程重要な役目を帯ぶるものはないでありませう。  今日の講中はあまりに堕落してゐます。その本来の意義を誤り目的を忘れて居りはしないでせうか。隊を為して各地を歩き廻り寺院の殿堂や門柱に札を張りつけて我が講中は今年何処と何処に参詣したといふ様なことを仕事として肝心の布教と各自の信仰増進は忘れて居るのが多くあります。しかし幸に我が宗内に於てはしかく左様なる講中のあることを見聞しないのは意を強ふするところであります。しかし此れは未だ講中に名をかりた遊山団体であるから益もないが害も少い、尤も恐るべきは講中制度の誤用であつて此れから起る弊害は一段であります。(以下省略)』(日淳上人全集)  そして、講頭の我見で教義を逸脱し、住職とあつれきを生じる傾向をいましめている。  創価教育学会は、これら造反講中のような存在ではなかったが、牧口常三郎が唱えた「価値論」と日蓮正宗の教義をドッキングした教義解釈や布教に対しては日蓮正宗僧侶から批判も少なくなかった。潜在的な対立≠内包していたといえる。  戦後再出発した創価学会は、これとは別の意味で、日蓮正宗と常に緊張関係にあった。  昭和二十一年十一月五日から六日にかけて大石寺で「講頭会」が開かれ、法華講の代表達が集まり、宗門再建にむけての意見が戦わされた。総本山大石寺や各末寺の法華講代表の他、「弾正講」「本因妙講」「妙道講」「正信講」「浄信講」「妙信講」といった特殊な講中の代表も集まり、戸田城聖も再開間もない創価学会の代表として参加した。  多くの出席者が、宗門や僧侶の現状に注文をつけたり、将来への思いを述べる等する中で、戸田城聖は、一人、角度の違った提案をしている。 「(法華講は)世間的に有名な信者を会長なり総講頭なりにして、寺院や教会から離れて活躍すべきである。」 「(活動の方針として)第一に政策、第二に哲学、第三に折伏……」(日蓮正宗「宗報」第十三号より)  つまり、これからの布教は、有力な信者に法華講を統率させ、宗門から独立させて行うべきだ、との主張である。そして、布教にあたっての重点の「政策」とは、国家レベルの政策であり、つまり、法華講の代表である有力者が、政治面でリーダーシップを発揮し、それが、日蓮正宗の地位と教勢の発展につながる、という主張である。後の公政連、公明党へつながる。また、「哲学」とは、後に戸田城聖が、日蓮正宗の教義や法華経を独自に解釈して作り出した「生命論」のようなものを指す。難解な経典をかみくだいて現代風に応用したものを示せということである。「折伏」については、説明の必要もなかろう。  戸田城聖は、まず自ら事業を再建し、有力者となり、法華講を統一した指導者「総講頭」ないし 「会長」になり、すでにはびこりはじめていた「霊友会」等の新興教団のように、教義や法華経をわかりやすく合理的に構築し、そして布教に乗り出そう、と考えていたことを示す。そのためには、宗門からの干渉を排し独立した存在にならなくてはならぬ。  だが、肝心の「事業」が、前述のように倒産により挫折した。一方で、創価学会の方は、予想以上に順調に伸び、昭和二十五年には、宗門内の他の講中すべてを圧するほどの勢力になった。戸田城聖は、方針をかえて、創価学会の運営に軸足を移し、その組織を利用して事業の再生をはかる方針に転じたのである。  このことは、 「有力者になり、宗門の委嘱を受けて総講頭になる」  という路線から、 「創価学会の勢力を拡大し、その力を背景に日蓮正宗を支配する」 という路線への変更を必然的にもたらした。  いずれにせよ、宗門の制約からはなれ、独立性を目ざした点で変わりはない。  昭和二十四年三月二十九日、戸田城聖は、大講頭に任命され、同年七月十日、「大白蓮華」を創刊した。そして十月二十三日、神田教育会館で開かれた第四回総会では、早くも創価学会を財団法人にするという決議が行なわれている。  昭和二十五年の暮れで、「東京建設信用組合」の清算も目鼻が立ち、新しくスタートした「大蔵商事」も軌道に乗り、安全圏に脱した戸田城聖は、昭和二十六年から、創価学会に全力投球するようになる。  この年、四月二十日に、「聖教新聞」を創刊した。そして、同五月三日、会長に就任した。五月十二日、創価学会本部に「大法弘通慈折広布大願成就」の本尊が下付された(後に、昭和五十年、池田大作はこれを勝手に板本尊に模刻した。これが池田創価学会による本尊私造の出発点となり、後の日蓮正宗による破門に至る遠因となった)。  それまで、寺院等で月一回開かれていた座談会が廃止され、会員の各家庭ごとを拠点とする座談会へと移された。

幸福製造機=御本尊で折伏大行進

この頃から、創価学会は、 「日蓮正宗の本尊をもらって拝めば、病気が治る。金がもうかる。一家が仲良く幸せになる。だまされたと思ってやってみなさい」 と、極端な現世利益を前面に押し出し、独特の軍隊組織と成果を挙げれば幹部に昇格されるという成果主義≠ナあおって、夜となく昼となく折伏を展開した。  他宗のような行者や祈祷、因縁話などない。ただ御利益と罰≠ナ押したのである。近代合理主義に徹したといえよう。  戸田城聖は、日蓮正宗の本尊を「幸福製造機」だ、と言い、次のような講演をしている。 「ここに一つの機械が出来たとするのです。この機械を今の科学的ないろいろな言葉で説明した結論において、これを上手に使えば必ず人生が幸福になるということになったとするのです。そうするとその機械は、ずい分高く売れやすいかと思うんですが、どうでしょうか。この機械を一台もって来てそうして上手に使うんです。技術的なめんどうさもありましょう。上手に使えば必ず幸福になるからえらい会社が出来ますよ。随分もうかる。一台十万円で売れますよ。何んとか借金しても買ってしまえば幸福になるから皆買う。これで断然もうかるぜ。以前からちゃんとこういう機械が出来ている。これが大御本尊様なのです。大聖人がチャンとそういう機械を作っておかれたのです。そうして我々民衆にお与え下さった。そして『自由に使えよ。金はいらんぞ』とおっしゃっているのに、さっぱり今の世間の人はちっとも使わない。というのは大御本尊様がそういう立派なものであるという説明がめんどうで解らないのであります。」(昭和二十七年六月五日、足立区支部総会)  こうした露骨な御利益話につられて、入信したものの、一向に功徳が現われなかったり、逆に不幸が重なることも少なくない。こうした人達には、 「拝み方が足りない。拝み方が悪い」 「過去世の罪障が深く、それが出て来ている」 等と指導し、 「一人で拝むだけではだめだ。折伏しなければ本当の功徳はない。自行化他の信心だから。」 と、しゃにむに折伏に追い立てる。  会員は金がほしい、病気を直したいの一心から折伏にかり立てられる。  支部、地区、班(一般)。部隊長、隊長、班長(男子部)という型の、軍隊組織をまねた上意下達の組織で、成果主義で会員をあおる戦法と、現世利益≠ェむすびついて、創価学会は、爆発的な発展を始めた。座談会等の会合では、今はやりの集団催眠≠竦脳がはげしく行なわれた。そのため、会員は狂ったように折伏にかり立てられた。  だが、創価学会のこうした行き方は、内と外とに摩擦を生じた。  創価学会の現世利益≠前面に押し出した折伏は、日蓮正宗内で批判の声が出たし、僧侶と従来の法華講を見下し、言いたい放題、やりたい放題、唯我独尊的なふるまいは、宗内僧侶の反発を買った。  折伏に血まなこの学会員達は、相手が入信をOKすると、気が変わらないうちに本尊下付をしてしまおうと、深夜だろうとあけ方だろうと、時間帯も寺の都合も一切無視して押しかけ、 「御授戒してくれ」 とせまる。僧侶が苦情をいうと、 幹部が出て来て 「我々は、止暇断眠、昼も夜も死にもの狂いで折伏しているのに、僧侶は惰眠をむさぼっておる。けしからん」 とつるし上げる。  元来戸田城聖には、僧侶や法華講を見下したところがあり、次のような発言がある。  「広宣流布まで、一切の混成軍はつくらない。坊主や旧信者が、なんの頼りになるか。われわれは、お山を擁して、ただ広宣流布へ進むのみだ」「地区部長なんかで、年取ったり、あまり働けなくなった者は、坊主にでもなるんだな」(第16章)  「旧教は僧と通じて神と通ずる。これは化儀に流れて化法を忘れたものである。新教はバイブルと通じて神と通ずる化法を重んじて、化儀を忘れたのである。」  「坊さんは偉いと思って化儀に流れているのが旧信者で、われら学会は、新教と同じ立場で、日蓮大聖人様と御書を通じて直結して行ずるのである」  「日蓮正宗でも、大僧正とか、権僧正とかという位がやかましい。尊能師などというのは偉くて堀米先生など、ほんの少しだ。細井先生は権大僧都、その下は僧都、権僧都、講師……と決っている。所化にも六階級もある。白衣の小僧は二等兵格だな。学問も智慧がなくとも、僧都までは登れることになっている。学会のように試験がないから、位ばかり上になっている『変な奴』のために、さっぱり意見が決まらない。」  「われわれが僧俗一致でやるというが、お山は頼らない。頼ってしまえば混成軍だ。旧信者なども、下手に入れると混成軍になってしまう。」(以上、水滸会記録)  創価学会では、寺院に参詣したり、僧侶に親しむ者を寺信心だ≠ニいって弾劾した。  「僧侶の指導を受けたら堕落する。折伏しなくなる。学会の指導だけを受けなさい。」  「お寺に、やたらと御供養する必要はない。学会としてまとめて総本山にしている。」  要するに組織の独立性と純粋培養をはかり、集団マインドコントロール≠ノ宗門側から水をさされないよう神経質なまでに注意を払ったのである。  そうかといって立正佼成会のように日蓮正宗とはなれてしまって独自の宗教を打ち立てることもできない。創価学会そのものは現世利益を前面に打ち出した超近代的合理主義≠フ形をととのえたが、それだけでは、人々はついてこない。宗教性即ち、教義そして本尊を日蓮正宗にすべて依存している以上、日蓮正宗とはなれては存在し得なかったからである。  だが、宗門や法華講とのトラブルがつづいたから、戸田城聖は、この際、一挙に独立化をはかる必要にせまられた。

宗教法人設立と日蓮正宗制圧 暴力宗教のルーツ

戸田城聖は、その第一弾として、宗教法人設立の腹を固めた。  昭和二十六年(一九五一年)十一月一日、聖教新聞紙上に突如として、宗教法人創価学会設立の公告が掲載された。  この公告には、代表役員戸田城聖、責任役員和泉覚、柏原ヤス、小泉隆、原島宏治、辻武寿、馬場勝種、森田梯二の七名の名前がある。  引きつづいて、宗門有力寺院や僧侶への根まわしが行なわれ、同年暮には、有力九ヵ寺に四十三万円 の御供養を行なっている。また、女子青年部三百名を大石寺に登山させ、デモンストレーションを行なった。 この年には、法人化の大義名分をととのえるため第六回総会で「本尊の日本流布(日本の広布)」「東洋広布」「宗門の宣揚」を宣言した。  また、「折伏教典」の初版もこの年発行されているが、その内容は「現世利益」と、法華経を戸田流に解釈した「生命論」、そして他宗をことごとく邪宗ときめつけた激越な攻撃であり、その後の創価学会の路線を端的に示すものであった。  さて、創価学会の宗教法人設立について、創価学会側から、  「我々の折伏活動が全国的活動となり、邪宗との決戦に至る時の大難を予想し、本山を守護し法難を会長の一身に受ける」  「将来の折伏活動の便宜上から宗教法人でなくてはならない」 との説明を受けて、日蓮正宗側は、  「創価学会が宗教法人となることについては法的な問題であって宗務院としてはあれこれ指示するつもりない」 としながら、  @折伏した人は信徒として各寺院に所属させること  A当山の教義を守ること  B三宝(仏、法、僧)を守ること を付帯条件とした。  それから二十年後のことになるが、この時の創価学会の誓約は、ことごとく反故にされた。 「本山を守護し、法難を会長の一身に受ける」はずが、言論出版妨害事件や妙信講問題、そして正信会問題等、創価学会存亡の危機に際して池田大作は、常に日蓮正宗をタテにし、法主の権威をかりて身を守ることに汲々とした。「折伏活動」の便宜のためではなくて、池田大作のやりたい放題、教団の私物化のために、「宗教法人」という独立の立場を最大限に利用した。  日蓮正宗の教義を御都合主義で手前ミソに勝手に解釈して曲げ、本尊を勝手に私造し(仏を破壊)、日蓮正宗の伝統教義を否定し(法を破壊)、法主をないがしろにし、その血脈相承や権威を否定した(僧の破壊)。  あげくの果てに、日蓮正宗が破門せざるを得ないように仕向け、池田教へと走ったのである。  宗教法人設立の際の誓約は、独立のための便法であり、その後二十年、三十年の歩みは誓約を反故にしていく歴史だったといって良い。  宗務院は、一応右のような話合いが成立したものの、宗内には、創価学会に対する疑惑や不信の念がうずまいていたから、ストレートには法人設立というわけにはいかない。  「創価学会にひさしをかしたら母屋まで取られるのでは……」といった反対論が強かった。そこで、戸田城聖は、実力行使による宗内鎮圧に乗り出した。  昭和二十七年二月、青年部内に参謀室を作り、石田次男(後に参議院議員、現石田幸四郎代議士の兄)、参謀に竜年光、池田大作を任命し、以後の実力行動や他宗との闘争の司令塔とした。  参謀室の初仕事は、同年四月大石寺慶祝記念行事における、いわゆる狸祭り事件≠ナある。  「狸祭り事件」とは、戦時中、神本仏迹論≠となえて軍部に迎合したとされる小笠原慈聞師に対し、「初代牧口常三郎氏獄死の張本人」と断定し、戸田城聖の指示のもと、青年部が、裸にならせてかつぎあげ、山内を練り歩いたあげく牧口常三郎の墓前に連行、むりやり謝罪文をよみあげさせた事件のことである。  折から、山内あげて慶祝行事の最中であり、法主の行列を乱して行なわれた創価学会による僧侶集団暴行事件は、宗内を畏怖させるためのデモンストレーションとして効果絶大であった。  その後、批判派の僧侶に対する集団恫喝とつるし上げ、そして手の平をかえしたような懐柔策がくりかえされた。こうしたこわもての実力行使だけではなく汚い手もつかった。高僧の身辺にお手伝いさん≠ニして女性を送りこみ、誘惑させ、その女性が懐妊すると、その高僧をせめ、弱味をにぎって言いなりに動かした。  平あやまりにあやまる高僧を、戸田城聖が池田大作と藤原行正氏を従えて罵り、持っていた数珠で打ちすえたりもしている。暴力と経済力と謀略でゆさぶられては、小さな仏教宗派はひとたまりもない。ついに宗門側は折れて、創価学会の宗教法人設立を認めることとなり、ついに昭和二十七年八月二十七日、東京都の認証により宗教法人となった。創価学会は、力づくで法人格と行動の自由をかち取ったのであり、日蓮正宗は、創価学会に屈服したといえる。  創価学会は、その後も「蓮華寺事件」(大阪市で反創価学会寺院であった蓮華寺住職の追放運動を行ない、蓮華寺は日蓮正宗から離れて単一法人となる)「的場事件」(大石寺の僧的場正順師の創価学会に対する態度をとがめ青年部が集団で暴行を加え、境内の川に投げ込んだ)等、青年部の集団暴力を前面に出した威圧作戦で、日蓮正宗に対する独立性と優位性を確固たるものにして行った。 当時はやりの労働組合によるつるし上げ≠煌逡奄ッのはげしさである。これに負けず劣らずの暴力的折伏≠ナ教勢は飛躍的に伸びた。これを背景に、創価学会としての財政も確立されて行った。「聖教新聞」「大白蓮華」等や、機関紙誌の売上げが飛躍的に伸び、「折伏教典」「御書全集」等書籍の刊行も利潤をもたらした。

金をとらぬ宗教≠ニいう詐術
 

今日の、「聖教新聞社」を中心とする創価学会の出版事業は、この時期にほぼ原型が出来上がっている。ただ創価学会の泣きどころは、他の教団のようなお布施¥Wめができない点であった。日蓮正宗では、一般人からのお布施、さい銭≠ヘ受けない。そして、信者からの御供養を受けられるのは、寺と僧だけである。戸田城聖は、しかしこの泣きどころを巧妙に利点≠ヨと転換した。「我々 は邪宗と違う。金集めはしない。お布施とかさい銭は一切受けない。創価学会は金のかからぬ宗教だ」 と、これを折伏のセールスポイントにしたのである。  たしかに、入会に際しては、日蓮正宗寺院で御授戒を行う際の費用と本尊下付、経本、数珠等の実費を負担するだけで良い。しかし、そのあとが大変である。  聖教新聞、大白蓮華、折伏教典等の講読が半ば義務的に押しつけられる。さらには、御書全集、その他の書籍の購読をせまられる。  連日開かれる行事は、もちろん自費参加。そして、折伏活動は手弁当で、交通費は自前。これも連日になるとバカにならない。  昭和三十年からは、これに選挙運動≠ェ毎年のように加わった。本部からの号令一下展開される人海戦術≠ヘ、すべて会員の自己負担で行なわれる。投票日間近になると、仕事を投げ出して戸別訪問にかけ回る。  それに、登山会が加わる。毎月のように団体列車での大石寺参り≠ノ参加するよう薦められる。 その他に、文化祭≠ニか○○大会といった行事にもかり出され、その衣装や用具まで自己負担させられる。  そして、裕福な会員は、財務部員≠ニして一定額の寄付をする。後に池田大作は、この財務≠無制限に拡大し、年間数千億円の金を集めるに至る。金を取らぬ宗教≠フ看板は、池田大作によってあっさり書きかえられたのだ。  池田大作は、私達に言った。 「芸者の旦那と宗教の信者は、しぼりとればしぼりとるほどついてくると、ある坊さんがいった。学会も、見習わなくてはならぬ。(会員から)もらって上げることが、その人の信仰心を強くしてあげることになる」  創価学会のもう一つの摩擦は、社会との間でおこった。  昭和二十年代の後半は、大蔵商事で会員から金を集め、これを高利で運用することで財政をまかなった。しかし、昭和三十年頃をさかいに、創価学会本体の収益事業による収入が飛躍的に増え、こちらに財政の軸足が移って来たのである。  池田大作は敏感にこれを察知し、次第に大蔵商事から創価学会本体へと活動の場を移して行く。それも、支部長∞理事≠ニいった通常の階段を昇るのではなく、戸田城聖に働きかけて参謀、参謀室長、渉外部長≠ニいった、特殊なスタッフ職をもうけ、就任して、会のすべてに口出し出来る地位を確立して行く。  池田大作は、渉外部長としてかつての陸軍における参謀≠フように、そして外務省や諜報部にあたるセクションを支配し、金力と、手なづけた青年部とをつかって、創価学会の主導権争いにのり出すのである。

暴力折伏で教勢拡張 参議院に進出

 

マインドコントロールされた会員による狂気じみた折伏攻勢、現世利益、「罰と功徳」論をかざした、そして入信後謗法払いといって、他宗の本尊や仏像、宗教的な用具等を焼却させる布教方法は、他教団との間や各個人の家庭や職場内で、深刻なトラブルを多発させた。  マスコミに創価学会を「暴力宗教」として、批判する論調が出はじめたのもこのころからである。 昭和三十年十一月十九日付毎日新聞には、  「暴力的に信者獲得」 という見出しのもとに創価学会がとり上げられ、当時の公安調査庁長官の  「最近創価学会などの新興宗教が軍隊化した組織を利用、なかば暴力的に信者獲得運動を行なっている。まだ事情を調査する程度だが、影響ある場合、破防法を適用するつもりである」 との談話が掲載されている。  これに対して創価学会は、「邪教の徒の宣伝」「三類の強敵」と非難し、池田大作は戸田城聖の命をうけて毎日新聞社に抗議に行っている。  創価学会は宗門に対すると同じくらい、あるいはそれ以上に、マスコミや世論に対して過剰に反応する体質を持ち、それが後年言論出版妨害事件を引きおこしたのであるが、この体質はすでにこの頃から存在した。  これは、創価学会のようなマインドコントロール集団≠ノとっては宿命的な体質といって良い。 オウム真理教は、マスコミによる批判報道を阻止するため、殺人という手段にまで及んだ。それは、こうした批判を野放しにしておくことが、団体の死活にかかわるからである。創価学会にとっても、会員が、創価学会の方だけを向き、その価値観だけで行動するようしばることが会員に対する集団催眠マインドコントロール≠維持する上で不可欠なのである。そのためには、マスコミの雑音≠ヘ最大の邪魔ものである。  なりふりかまわぬ暴力的布教≠フ成果はすさまじく、昭和三十年暮れには創価学会は公称三十万世帯の大勢力にのし上っている。既に当時の日蓮正宗全法華講世帯数の十倍近い勢力となったのである。  戸田城聖は、この年、教勢の発展を背景に、政治への進出を果たす。  同年四月の統一地方選挙で、創価学会は一挙に五十一名の候補者を当選させ、世間の注目をあびた。翌三十一年五月三日には、「国立戒壇建立の時来る」との合言葉のもと、東京国際スタジアムに三万人の会員を集めて行った第十四回総会で「五十万世帯の年内達成」「参議院に高潔なる人材を」との方針を打ち出した。  そして参議院全国区に辻武寿、原島宏治、小平芳平、北条焦八の四名と、東京地方区に柏原ヤス、大阪地方区に白木義一郎の各氏を立ててはげしい選挙運動を展開した。  宗教活動と選挙運動を一体化した創価学会の運動方法は、この最初の選挙のときから世間の耳目を集め、新聞、雑誌は一斉に批判を展開しはじめ、折伏をめぐる暴力事例や選挙違反で幹部全員が逮捕されるという事件が相次いだ。  こうした司直の摘発を受けた学会員に対して、戸田城聖は 「法難賞」をもってむくいた。  「国法にそむいても仏法には違背していない」  「仏法上、法のため身を捨てた人は功労者だ」 というわけである。

選挙で頭角、池田大作のリーダーシップ

 

大蔵商事の経営から軸足を創価学会に移しはじめた池田大作は、その遊軍∞戸田の近衛隊%Iな地位を、この選挙活動の分野で最大限に発揮した。戸田城聖も、世間知らずの幹部達より、金融業≠ナきたえた池田大作の世故にたけた%_を重用した。  池田大作は、すでに組織の固まりつつあった東京をさけて、新天地・関西≠担当し、そこに牙城をきずくことになる。  池田大作は、昭和三十一年の参院選において、大阪地方区で立候補した白木義一郎氏の選挙司令となった。  「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華昭和三十一年八月号)  「我らが政治に関心を持つ所以は、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち国立戒壇の建立だけが目的なのである。特に政治に対しては三大秘法稟承事における戒壇論が日蓮大聖人の至上命令であると我々は確信する」(大白蓮華・昭和三十一年八月号)と、参院選を、国立戒壇建立のための聖戦と位置づけ、激越な選挙戦を展開した。  池田大作は、公示後のスケジュールに、 「抜刀」「突進」「突入」「突撃」など、超過激なネーミングを行い、学会員を目一杯かり立てた。創価学会員は池田大作のアジテーションによって集団催眠状態となり、昼夜を分かたず題目をとなえ、戸別訪問に突進した。  その一方で、他党の関係者が舌を巻くような謀略や妨害の手をくり出している。  池田大作のこの時の謀略について、その下で戦った田代富士夫氏(後に公明党参議院議員、砂利汚職で有罪判決を受け、政界を引退)は、幹部向け機関紙『前進』誌上に、「将軍学を学ぶ」と題して次のような手記をのせている。  「ある日選挙事務所が酔っぱらいに荒らされた報告を受けられた先生は『すぐに一一〇番して警察に来てもらいなさい』と指示され、間髪をいれず、また『警察に電話をしたか』と電話があり、『いま呼んでいます。もう来ると思います。』とお答えすると、先生はさらに『刑事はどうした』『近所には全部あいさつに行きなさい』『いま、対立候補が、こちらの事務所になぐり込みをかけてきました。そのため皆さんに、たいへんご迷惑をおかけしました≠ニいって御近所を全部まわりなさい』と指導された。まったく敏速な処置であった。  大急ぎで五十軒ぐらい近所回りをした。そして先生は『対立候補に悪らつな妨害をやる選挙事務所になぐりこみをかけてきた≠「う印象与えればよいのだ。特定の候補の名前を出さず、一軒一軒手を打て』といわれた。」  このように、何事も目的のためにうまく利用せよ、ウソも方便、というのが池田大作流の将軍学≠ネのである。  この選挙で、白木義一郎は当選し、また、全国区でも九十九万票を集め、辻武寿、北条焦八両名が当選した。その一方で、東京地方区の柏原ヤスが落選したため、池田大作は創価学会内で一挙に頭角をあらわす結果となった。選挙こそが池田大作にとって、創価学会に於いてリーダーシップを確立する願ってもない舞台となったのであり、金貸し≠フ裏方から、一躍晴舞台へと登場するきっかけとなったのである。  昭和三十二年、身延派日蓮宗僧侶と創価学会の間で行なわれた「小樽問答」で、池田大作は司会役をつとめ、創価学会側を勝利にみちびいた立役者となり、また、昭和三十一年から三十二年にかけての炭鉱労働組合との闘争でも渉外部長として中心的役割りを果たした。  こうして、昭和三十二年には、池田大作は青年部に対する支配権を確立するとともに、これを背景に、創価学会に対する発言力を増して行く。当然、大蔵商事の営業部長という汚れ役からは事実上手を引く形になっていった。

大阪事件の真相 池田大作のつまづき

 

だが、好事魔多し≠フ例え通り、大阪での選挙戦が池田大作の足を引っぱる事件が発生する。  昭和三十二年四月、大阪府で参議院議員補欠選挙があり、勢いに乗った創価学会は、中尾辰義氏を立候補させ、前年と同じ参謀室長の池田大作が司令となって陣頭指揮をとった。池田大作は、ここで再び勝つことで、以後の創価学会のリーダーシップを一挙ににぎりたいと考えていたから、前回にも増して過激なアジテーションを行った。  前年の白木義一郎の選挙でも創価学会は多数の違反者を出したが、国連恩赦で免責を受けている。しかし、警察も検察も、創価学会の選挙違反には目をつけていたらしい。  昭和三十二年の選挙では、中尾辰義は落選したが、その直後から四十五名の学会員が選挙違反で摘発され、有罪となった。タバコの箱に札を入れて配るという、集団戸別訪問と買収がからんだ違反事件で、逮捕された会員が「小泉隆、池田大作の承認のもとに行なった」と自供したため、六月二十九日に小泉隆が、七月三日に池田大作が逮捕された。  池田大作は検事の調べに対して全面自供し七月十七日、拘留期限満期前に釈放されている。  しかし、池田大作は公判に当たり、容疑を全面否認、四年四ヵ月にわたって争った。判決が下ったのは、池田大作の会長就任後二年近くたった昭和三十七年一月二十五日である。  なにしろ、法戦≠ニ信じて選挙違反を堂々と行なった学会員達のことである。検事の調べで皆自供していたし、池田大作本人が、検事の調べに音を上げて、早々に自供に追いこまれていた事件である。公判になって、関係者は一斉に供述をくつがえし、口々に、  「池田先生には関係ない。自分達が勝手にやったことだ」 と述べたが、後の祭りである。  関係者も本人も、弁護団も、有罪やむなしという判断で判決の日を迎えた。 「打合せのときは弁護士か検事か、まるでわからぬ口調でいつもせめられた」 池田大作はよく回顧して語っていた。  「私だけは、無罪を確信していた」 こう、強がって見せたりした。  だが、本人も、有罪やむなしの判断に傾いていたことは、判決の直前に、創価学会の代表役員を辞任し、原島宏治氏(理事長、当時)が一時就任していることを見てもわかる。  そして、判決確定後、池田大作は、また、代表役員に戻っている。有罪判決を受けた身が、公益法人である宗教法人の代表役員の地位にいることが、創価学会の法人格に悪影響を与えることをさけるための措置である。  池田大作は、その後、妙信講問題や松本勝彌裁判などで法廷に立たされるのをさけるため、昭和五十一年に代表役員を北条浩理事長にゆずったが、それまで、右の昭和三十七年の一時期をのぞいて、代表役員からしりぞいたことは一度もない。北条浩氏に代表権をわたすときも、北条浩氏から、創価学会はすべて池田先生のものであり、私は便宜上先生にかわって代表役員となったものです。私の判断を一切はさむことなく、すべて池田先生の指図通りにいたします という一筆をとっている。 創価学会はオレのもの≠ニ思っている池田大作が、絶頂期にさしかかろうというときに、ほんの短い期間代表役員をしりぞいたということは、有罪判決にそなえてのこと以外何ものでもない。あるいは情状酌量≠ねらったものであろう。  検事の論告は  「創価学会の選挙違反は、宗教の仮面をかぶった悪質な戸別訪問であり、本件は氷山の一角である。宗教団体は社会悪を正すのが本来の使命であるにもかかわらず、広範囲に違反を起こしたことは、情状酌量の余地がない」というものであり、「禁固十月」の求刑をした。  創価学会の選挙運動の本質をついた、今読んでも、りっぱに通用する内容であり、検事の見識は仲々のものである。今でも通用する≠ニいうことは、今も昔も、創価学会の政教一致選挙は一向に変わっていないということであり、これを以後四十年間も野放しにして来た当局の責任は重大といわなくてはならない。  池田大作は、昭和三十六年十二月十五日の最終弁論の際、次のように述べている。  一、我々は市民であり選挙を行なうのは憲法に保障された国民の権利である。選挙運動をやってなぜ悪いのか。(今も創価学会は同じことを言っている。だが、会員が選挙をやっていけないとはだれもいっていない。国立戒壇のため≠ニか、宗教団体が天下を盗ろうとし、政党を支配するような形で の関与は憲法違反だと、国民から批判されているのである 筆者註)  一、戸別訪問は法律で禁止されているが、自由にしてよいという議論もある。創価学会員は過去の選挙で全国的に戸別訪問の罪に問われたが、たいてい略式命令による罰金等の軽い刑であった。今回の「禁固」の求刑は過酷である。  一、大阪は商人の多い土地柄なので、権力にはとくに弱く、また大阪の地検検事は横暴で取調は過酷だった。権力を盾に弱い者をいじめる検事は許しがたい。  一、選挙に敗れたとき、戸田に役職解任を願い出たが、保留された。また、拘置所から出たとき、戸田が「裁判があるではないか、裁判長はわかるはずだ」と言った。

疑惑にみちた無罪判決

 

この、有罪を認めたような最終弁論での主張にもかかわらず、池田大作は無罪となった。  その理由は、裁判長が職権で取寄せ、調べた拘置所の記録に、検事が池田大作を深夜にわたって長時間取調べた事実があり、これは違法な捜査で「黙秘権の侵害」があったとして、池田大作の捜査段階での供述調書のすべてを証拠能力なし≠ニして排除した。そして、「有罪とする根拠がない」としたものである。  新刑事訴訟法施行後日の浅い段階では、捜査の手続ミスによる無罪事件は少なくなかったようだが、当事者主義(検察と弁護側が提出した証拠にもとづいて裁判所が判断する訴訟形式)の刑事裁判において弁護側が主張も指摘もしていないのに、裁判所が職権で拘置所の記録を調べるということは、まことに異常な事例といわなくてはならない。有罪間違いなしとされた裁判を、何とか無罪にしようと、裁判所が弁護人以上の弁護活動をしたという、まことに希有の裁判であった。空前絶後≠ニとって良いかも知れない。  関係者全員が狐につままれた思いをした判決のなぞをとくカギは、池田大作の「裁判長だけはわかって下さるはず」という発言にあるのではなかろうか。  それから十年ばかり後のことである。高等裁判所判事を務め、退官後弁護士になり、創価大学の教授に迎えられた熱心な学会員の法律家といっしょに池田大作と会食する機会があった。  その法律家は、池田大作に、 「○○さんと会い、御指示のとおりにいたしました。○○さんは、池田先生にくれぐれもよろしく、ということでした」 と報告した。  後で、「○○さんとはどういう人ですか」とたずねたところ、その法律家は、 「大阪事件のときの裁判長ですよ。」 と意味あり気に笑った。その後に交わした会話については、まだ活字にする気になれない。公平無私と思われている司法の奥の奥≠ノよこたわる黒い蛇の道≠ノついて、隈部裁判や妙信講裁判で、私は創価学会顧問弁護士の立場で利用した経験があるし、私の恐喝裁判≠ナは創価学会に利用された≠ニ思われるふしがある。  私の再審請求が受理されて、裁判のやりなおしが始まった時、これらの事実も俎上にのせるつもりである。

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