池田大作 日本経済乗っ取りの野望(1)

−社長会記録の読解より−

金権体質の骨格形成と経済支配構想

1-2

(序)金と権力を生む宗教の本音
草創期、創価学会再建当時の教団と事業 宗教を権力奪取の手段視した戸田城聖
池田大作入信の真相
戸田城聖の破綻と池田大作
戸田の金銭哲学−葉っぱ(信仰)をお札に!
大蔵商事と池田大作
大蔵商事のしりぬぐいに正本堂御供養金
池田営業部長、色と欲の二筋道
高利貸池田大作”取り立て”のすご腕
担保品売りさばく”東洋精光(物産)”

池田大作 日本経済乗っ取りの野望(書籍案内)

(序)金と権力を生む宗教の本音

 バブルがはじけた後の日本は、西を向いても東を向いても不景気な話ばかり。大手銀行や証券会社の倒産という、信じられないような事態となった。  そんな中にあって、佐渡や鎌倉での広大な日蓮大聖人霊跡地買収、新潟での大規模霊園開発、そして東京板橋区での、住民の反対運動を押し切っての会館建設に象徴される会館建設ラッシュと、創価学会の大盤振舞いだけが突出している。  日蓮正宗から破門され、本尊≠失った創価学会が金に糸目をつけず日蓮大聖人の御真筆御本尊を買い求めようとしている等のうわさも後を絶たない。  その一方で、公明議員の汚職事件が続発し、生活苦に陥った会員による犯罪も続発している。  昨年暮れの広布基金集め=i例年の寄付集め)では、ついに「生活保護世帯からの集金はやめるように」との内部通達が出された。いまさらの感がするが、そこまで会員の経済状態も底をついてきたのである。

 会員からしぼりとった創価学会マネーは、この不景気のさなかにあって、銀行、ゼネコン等財界に大きな支配力を持つとともに、それは、政界にも巨大な影響を及ぼしている。  おこぼれにあずかろうと、銀行やゼネコンが創価学会本部に日参し、卑屈に頭を下げる。テレビやラジオ、新聞も、創価学会の巨額な広告料の前にひれ伏す。政界では独自路線を歩み出した公明をめぐって自民党も野党も色目をつかう。すべてこれ創価学会マネーの威力といって差し支えない。

 この巨大な財力は、設立以来の「宗教法人に対する免税恩典」を一二〇%利用して築かれたものであり、マインドコントロールされた会員から容赦なく収奪した金が蓄積されたものである。そして、これを、巧みに操縦する元金貸しの手代£r田大作の辛辣なやり手経営≠ェ創価金満王国の原動力といえよう。そして、池田大作は、この資金力を、単に学会内に止まらず、これを土台として関連企業を一般の企業より優位に立たせ、やがて日本の経済界を支配しようという野望を持っていたのである。

 政治面だけでなく、経済面でも日本を支配しようとするその背景には、「権力の基盤は金」という戸田城聖から徹底してたたきこまれた哲学が存在する。宗教でマインドコントロールできない国民は、経済で支配し、権力を奪取する。この野望のもと、池田大作の経済戦略は組み立てられた。

 その手法は、学会及び学会員の有志で千、二千とたくさんの小さな事業を全国に展開し、時が来たら、これらを糾合して大会社、大商社をつくり、財界を支配する∞世間が気がついた時にはもうおそい、あっとおどろく≠ニいう、池田大作一流の隠密作戦である。今、その作戦どおり、何千何万もの池田大作子飼いの企業が全国に展開しており、寿司屋レストラン∞書店∞喫茶店∞美容室∞葬儀会社%凵X、その業種も多彩である。

 公明議員の政治力を金にかえる公共事業∞清掃∞産業廃棄処理≠ニいった事業も、創価学会の得意とするところで、その進出はめざましい。  学会員は、これら学会系の店や、選挙の時に公明に票を入れてくれる¥、店や企業しか利用しない。すでに、学会経済圏≠ニいったものが出来つつあり、それは、他の一般企業に対するハンデキャップに他ならない。

 もっとも、これら学会企業及び学会系企業は、広布基金≠サの他創価学会の収奪、上納金吸い上げというマイナスハンデを背負っているから、良いことばかりではない。  しかし、中心にいる池田大作がうるおう構造には変わりない。  この創価学会の、宗教と金もうけの二足のわらじ≠ニいう構造、体質は、すでに、戸田城聖が戦後間もなく創価学会の再建にとりかかったときから存在した。創価学会にとって宗教活動と金もうけは、創立以来、持ちつ持たれつ、車の両輪の関係にあり、むしろ°烽烽、け≠フ方が優位にあったといって差し支えない。  金もうけの責任者、大蔵商事役員の池田大作が、宗教活動の中心者だった石田次男を押しのけて戸田城聖の後継者の地位を奪い取った経過そのものが、このことを証明している。

 池田創価学会は、とにかく金にはどん欲で抜け目がない。  その本質と、恐るべき経済支配の野望とプロセス≠、創価学会の真実の歴史と内部文書によって論証することが、本書の目的である。  池田大作の、政党支配による天下盗り≠フ野望については、多くの人達の啓蒙努力によりすでに世間の人々が広く知るところとなり、これに対するノー≠フ世論の声が、平成八年秋の総選挙における新進党の敗北、そして、創価学会系候補の大量落選という結果となってあらわれた。しかし、それにまさるとも劣らぬ経済支配≠フ野望の恐ろしさについては、余り知られていない。  国をあげてきびしい経済環境におかれている中で、貧しい庶民から搾取し、その金を無用な、経済効果のまるでないグロテスクな建築や池田大作の勲章あさりに浪費することは一国家の経済力を大きくそこなう反社会的な行為といわなくてはならない。  改めて、世論の注意を喚起する必要を感じるゆえんである。

草創期、創価学会再建当時の教団と事業

宗教を権力奪取の手段視した戸田城聖

 宗教を権力奪取の手段視した戸田城聖 金と宗教≠フ奇妙な混合は創価学会設立のときからつきまとう特質である。まずそのことを、歴史をふまえて検証したい。  昭和二十年七月三日、戸田城聖という男が東京都中野区・豊多摩刑務所から出所した。 「創価学会」の歴史はこの時から始まる。

 牧口常三郎が会長として主宰した「創価教育学会」は、当時、軍部が進めていた宗教政策からはみ出す存在として弾圧を受け、牧口会長とともに理事長の戸田城聖も投獄された。  もっとも、その理由は、池田大作らが後世ねつ造して宣伝したごとく、「反戦・平和」を主張したからではなく、軍部が進める日蓮宗各派統合政策に反対し、また、「日蓮によって祈らなくては国が亡びる」と強く主張したことが、国家神道とそぐわなかったから、ということが主なものであった。創価教育学会も、当時の他宗教と同じく、戦勝祈願≠行ない、また、座談会の初めには宮城よう拝を行なっていたのであって、その当時、反戦≠ニか平和≠ニか言う人物や団体は、日本の社会には存在しなかったか、できなかったのである(そんな歴史のイロハも知らずして、「創価学会は反戦・平和で軍部に弾圧された」という神話をウノミにして創価学会シンパとなった進歩的文化人が現実にいるから驚かされる)。

 牧口常三郎氏は獄死した(もっとも、当時を知る数少ない人の証言によると、心身ともに消耗し、廃人状態となって釈放された後、死亡した、という説もある。いずれにせよ、軍国主義の犠牲となったのであり、いたましいことであった)。戸田城聖の出獄後、一ヵ月余り、八月十五日、第二次世界大戦は、日本の無条件降伏によって終結した。  同年十二月九日、GHQは、「国家と神道の分離令」を発令し、国家神道、神社神道に対する政府の保障、保全等が廃止された。そして、戦前の宗教法人法は廃止され、ポツダム勅令にもとづく宗教法人令が施行された。

 戦前の宗教団体法は、政府の宗教団体に対する監督権が強く、国家による宗教支配と弾圧の根拠の一つになったことにかんがみ、宗教法人令は、国家の宗教支配の排除、神道を事実上の国教とする戦前の政教一致体制を否定し、あらゆる宗教団体を平等に扱い、宗教法人となる道を開いた。  翌二十二年五月三日には、新憲法が制定され「信教の自由」と「政教分離」が明確に保障された。  GHQの占領政策によって突然もたらされた「信教の自由」と「政教分離」のもとで、神道は閉塞し、既成仏教教団も農地解放策の打撃でなすすべもなかった。そして国民の生活苦と社会の混乱の中で新興宗教が雨後のたけのこの如く誕生し、発展した。霊友会、立正佼成会等の教団が全国を風びし、また、戦前、弾圧を受けて逼塞していた天理教、PL教団等も息を吹きかえした。  こうした、我が国の宗教界に大きな風穴があいた状況の中で、創価学会は再スタートを切った。  もっとも、戸田城聖が、出獄後まず手がけたのは、事業の再建であった。

 昭和二十年八月二十日、終戦からわずか五日後に、東京、上大崎に『日本正学館』の仮事務所を設立し、通信教育の広告を新聞等に掲載している。戸田城聖四十六才の時である。それから十三年後、五十八才の若さで世を去るまで駆け足で走りぬけた人生の間に、彼は、百三十万世帯という驚異的な巨大教団をきずき上げた。  同年十月、西神田に『日本正学館』の事務所を移した戸田城聖は、政治家古島一雄氏、弁護士大滝某を相談相手として、教育、出版事業に精力注いだ。  これに遅れること五ヵ月、昭和二十一年三月、戸田城聖は、『日本正学館』の事務所にやっと『創価学会』の看板を並べた。

 牧口常三郎は教育者であり、日蓮正宗の教義と独自の「価値論」を結合させ、「創価教育学会」を創立したのであるが、戸田城聖は、戦後、牧口常三郎氏の遺弟を糾合して再建するに当たり、「教育」の二字を取り去った。  戸田城聖は、教育そのものには関心がなかった。そして「信教の自由」「政教分離」がもたらすであろう社会変化を鋭く見とおして、来るべき「宗教の時代」そのものを、自分の野心を実現する舞台と考え、宗教を中心にすえる意味で教育≠フ二字を除いたのであろう。  この点について後に、戸田城聖の遺言録(日蓮正宗開祖日興上人の遺戒置文≠ノなぞらえて、池田大作は、これを創価学会の遺戒置文≠ニ呼んだ)を池田大作が加筆、編纂した「水滸会記録」には次のような一節がある。

 『今日の日本では、経済界も政界でも教育界でも、組織がガッチリ出来上がって、これからのびて行く余地は少ない。ところが、宗教界だけは、ちょうど戦国時代のときのような乱戦状態である。法律でしばる何ものもない。縛を解いて虎を野に放ったようなものである。今こそ広宣流布できるチャンスだ。』  この言葉は、戸田城聖が宗教を、政治や経済活動と同列に、国家権力を争うための一つの手段として端的にとらえていることを示すものであり、これは、戸田城聖のポリシーを継承した池田大作の宗教観でもある。  もっとも、戸田城聖は、創価学会より、事業の再建を優先したが、それは、彼がそれまですべての基盤は経済力にある≠ニの思想の持主であったからである。  同じく「水滸会記録」には戸田城聖の言葉として次のような記述がある。  「むかしの武器は刀であったが、現代の武器は金力(財力)である。むかしの兵力に相当するものは、金力である。」

 「今日は、新しい一つの理論を教えよう。広宣流布の基盤はどこに置くべきか。経済に基盤を置かなくてはならない。一億や十億の金では、広宣流布はできない。しからば、日本中の金がなければダメだ。大経済に腰をすえて君らがやるんだ。君らがやらないでだれがやるのか」  「一人の議員をつかんで自由に動かすのには、買収費と小遣いをいれて(当時)一年に四百万円かかる。百人で四億円だ。これが一つのホシになる。  四億円あれば、日本を動かすことができる。広宣流布も最後は経済だ。だから日銀総裁も、この中から出なければダメだ。」  この戸田城聖から個人的に薫とうを受け、その事業面の中心となって働いた池田大作が、経済活動と創価学会の宗教活動を渾然一体化してとらえるのは、当然のなり行きであろう。否、むしろ経済を支配する者はすべてを支配する≠ニいう考えの持ち主であるといった方が正確である。ちなみに、池田大作は、「社長会」を拡大した外郭職員の会である「金剛会」において、自らが本部職員や聖教新聞社員ではなく、大蔵商事から出て創価学会の会長になったことを自賛して「外郭の諸君は源氏であり、本部職員は平家である」と宣言している。

 池田大作にとって、創価学会本体も、外郭会社群も、文字どおり一体不二≠ネのであり、教団が、たまたま金もうけのために事業に手を出す、ということは根本的に違うのである。さらには創価学会本体より経済を支える外郭会社の重要性を強調することで自らの権威を高めようとしたとみられる。この点の認識がなくては、創価学会の拝金主義が正しく理解できないし「社長会記録」についてもその意味がよくつかめないのである。  前述のとおり、戸田城聖は、「日本正学館」の看板と「創価学会」の看板を並べて(もっとも、前者が主で、後者はつけ足しのような形)掛けた。  戸田城聖は、事業と宗教活動を一体視していたのであるが、この時期は、まだどちらかというと、「創価学会」の方は、片手間、といった印象を否めない。  さて、その創価学会は昭和二十一年五月一日の第一回幹部会で、戸田理事長のもと、牧口門下生の原島宏治氏、小泉隆氏、辻武寿氏らを理事に定め、一応、会の規約や綱領を発表した。教学、財務、婦人、青少年等、今日のひな形となる九部の組織を定めた。六月二十二日には十一名で青年部も発足している。

池田大作入信の真相

 池田大作がこの草創期の創価学会に入信したのは、昭和二十二年八月二十四日である。後に、この日は「池田先生入信記念日」とされ、会員達は莫大な御祝儀や祝品を強要される日となっている。  池田大作著「小説人間革命」によれば、戸田城聖と池田大作は、この日大田区内の座談会で宿命的かつ劇的な出逢いをしたことになっている。 「戸田は無言でうなずいた。 一座の人々は、呆っ気にとられていた。 伸一は、軽く眼を閉じ、朗々と誦しはじめた。

『旅びとよ  いづこより来り  いづこへ往かんとするか

月は沈みぬ 日は いまだ昇らず  夜明けの前の混沌に 光 もとめて

われ 進みゆく  心の 暗雲をはらわんと

 嵐に動かぬ大樹を求めて  われ 地より湧き出でん とするか』

同行した、二人の文学青年は、拍手を送っていた。  一座の人々も、それにつられたように、拍手を送った。だが、なんと変わった青年だろうと、いささか度肝を抜かれた思いであった。  座談会で、詩をうたった青年は、これまで、一度も見なかったからである。詩の内容など、彼等の頭にはとどまらなかった。」

 ところが、である。  東京大学教授で東洋文化研究所長であった小口偉一氏が、学者や学生達といっしょに行なった新興教団の調査結果をまとめた「宗教と信仰の心理学」という書物が昭和三十年に発行されている。  その中には、創価学会幹部の体験談として当時の池田大作のインタビュー談が次のように紹介されている。

 「(御本尊下付について)三十分間ほどいりませんとがんばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやりに私に押しつけました。」、「家にかえっても三日間おがまずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロなって、私ばかり狙っているように思ったので、その時思わず南無妙法蓮華経と口をついてでました」  小口偉一氏は、宗教学の第一人者であり、その流れの学者達が今日、各大学で宗教学を教えている。

当時、日本で最も権威のあった東大東洋文化研究所関係者の学術調査をまとめた「宗教と信仰の心理学」で、ことさら偽の記載をするはずもないしその必要もなかろう。「小説人間革命」の中で、池田大作が、自らを神格化せんとしてウソをデッチ上げたことは疑いの余地もない。

 立ち上がって詩を朗読して入信した、というのはまっ赤なウソ。むりやり御本尊をもたせられ、ほうり出していたところ、カミナリにおびえて拝むようになった、というのだから、こっけいを通り越して異常である。ちなみに、池田大作に親がつけた名前は、じつは「太作」であった。これを、どういう手口をつかったのか、「大作」に改名している。平凡な自分の生い立ちを、ことさらきれいにかざり立てようとして歴史を改ざんし、つくりごとを考え出すのは、池田大作のクセである。

 池田大作は、入信後、中小企業団体の事務員などをしていたが、それ以前、ブラブラしていた時期、川崎市から大田区を縄張りにする暴力団金融の手先となって、貸金取立てなども手伝っていたという(あるいは、ヤクザとの関係は、後述の、東京建設信用組合の整理の際、生じたともいわれる)。  その池田大作が創価学会の座談会に出席したのは、ナンパした女性が学会員であり、さそわれて鼻の下を長くして出席したところ、きびしく折伏され、女性にとり入ろうとしていやいや入信したのである。

 余談であるが、この女性は池田大作をソデにしたため、一族は後になって池田大作から長期にわたって陰険な仕打ちを受け続けた。  入信しても、ロクに勤行もせず、ブラブラしていた池田大作に戸田城聖が目をつけたのは、その、あつかましさと抜け目のない商才≠ナあった。  池田大作は、入信後一年余りたった昭和二十三年秋、戸田城聖の「日本正学館」に職員として採用された。日本正学館は、当時はやりのエログロ雑誌「ルビー」と少年雑誌「冒険日本」を発行していたが、余りに売れなくて赤字がつづいていた。池田大作は、経営不振のため、給料がろくに払えなくてなり手のなかった少年雑誌の編集長に志願しておさまった。  このつかの間の「編集長」の肩書きを、池田大作はえらく気に入っていたとみえて、後日の思い出話の中でも再三出てくる。その頃のペンネーム「山本伸一」を、後の「小説人間革命」の著者名としてつかい、また、親衛隊に対して「伸一会」と名づけている。生まれた子に名付け親をたのまれると、「大作」の次に「伸一」「伸子」の名が多いし、ひところは、学会本部近くの小学校で教師が「大チャン」「伸一君」と呼ぶと、クラスの四分の一くらいの子が返事をしたという。対照的に池田大作が最もその才能を発揮した「大蔵商事」営業部長時代のことは、ほとんど語らない。自分の出世につながった金貸しの手代℃梠繧、池田大作は、思い出すのもおぞましい汚い仕事≠ニして、ひた隠しているのである。

戸田城聖の破綻と池田大作

 だが弱小出版社の雑誌編集は楽ではなかった。 「日本小学館」は昭和二十四年には六千万円の負債をかかえて倒産し、雑誌は廃刊となった。会社はそっくり東京建設信用組合に移行し、池田大作は、そこで働くことになる。この会社もインフレのあおりをうけて、悪戦苦闘の末昭和二十五年八月二十二日、当時の金額で七千万円の負債をのこして倒産し、戸田城聖は債権者に追われる羽目となった。今日でいえば、第二地銀クラスの金融機関の破たんになろうか。

 当時、小平芳平、神尾武雄、和泉覚ら、創価学会の中心幹部が社員でいたが、皆お人よしで無能なため、何の役にも立たない。その中で、若いながら世故にたけ、ものおじしない池田大作が一人で、戸田城聖のかわりに借金取りの矢おもてに立った。また、資金ぐりのため、有力な会員をまわって金集めに奔走した。  「昭和二十五年はすごかった。戸田先生の奥さんは薬売りをしようとする。借金取りは連日連夜、悪口を言った。私一人で頑張った。横領罪で訴えられそうになった。二十五年の十二月には駄目かも知れぬと思った。………」(社長会記録昭和四十三年四月二十九日)  「八月の業務停止からまもなく給料は遅配から半額払いになり、やがて無配となっていった。一人去り二人去りして残った社員は、私のほか、二、三人になってしまったのである。私自身、ワイシャツ姿で晩秋を過ごさねばならなかった」(池田大作著「私の履歴書」日本経済新聞連載)  総勢十人に満たない小さな会社の新参の末席社員であった池田大作は、入社後一年余りで倒産の修羅場の中に投げ込まれ、気がついたら戸田城聖と二人きりで借金取りと立ち向かう羽目になっていた。しかも業種は、インフレの燃えさえるなかでの無尽に毛のはえたような街金融であった。

 百鬼夜行の欲の皮を突っぱらせた金の亡者達が血まなこになって争う世界で、池田大作は、倒産、整理という衝撃的な作業からスタートして金融業の裏道を実地にたたき込まれたのである。金をめぐって情け容赦なく野獣のように喰い合う世界で、池田大作はその独特の金銭感覚をやしなったのである。

 昭和四十九年七月頃、池田大作は私をはじめ二、三人の側近とともに「今日は飲もう」と珍しく水割りを半分ほど飲んだ。そして、雑談の中で  「戸田先生の唯一の失敗は、私に、金貸しのような、汚い仕事をやらせたことだ。俺なら、後継者の人生経歴を、そんなことで傷つけたりしない」 と言った。戸田城聖は、人のつかい方はきちんとしたところがあり、創価学会の後継者と目していた石田次男氏(元参議院議員、公明党石田幸四郎委員長の実兄)には、一切自分の事業にはタッチさせなかった。反面池田大作を汚い℃d事にこきつかったことは、戸田城聖が、池田大作を「創価学会」の後継者とは考えていなかった証拠ともいえる。  金融業≠サれ自体は、れっきとした職業であり、必ずしも汚い℃d事ではない。しかも、自分はそのおかげで、会長になるキッカケをつかめたのだ。にもかかわらず池田大作が汚い仕事≠ニ自己嫌悪をもって語るのは人には言えない、想像を絶する仕事であったことを問わず語りに白状したようなものである。実際、池田大作の金銭的感覚は、人並みはずれて意地汚くずるい。見えすいたウソを平気でつく。若い頃身についたその下品さは、終生ぬぐいきれないと見える。

 また池田大作は、 「資金ぐりが苦しく、金策にも四苦八苦している時、戸田先生と二人で皇居前広場を通りかかった。私がヤケクソ気味に『こんな男にだれがしたあ』と歌ったら、横から戸田先生が『俺だよ』とニコリともせず言った」 と思い出話を語った。  とにかく、池田大作が当時ヤケッパチになり、後に思い返してもへきえきする汚さ∞やりきれなさ≠持った裏の裏の仕事に、手を染めていたことは間違いない。私も、池田大作に命令されて、今思えば身の毛のよだつような思いのする裏の仕事≠ノ従事したことを後悔しているだけにその心情だけはよくわかるし、いささかの同情もする。  私は、こうした仕事がいやになり、逃げ出して、池田大作から恐喝犯≠ノされるというみせしめの制裁を受けた。池田大作は、毒をくらわば皿まで≠ニ戸田城聖のもと、汚れ役に徹し、後に創価学会の帝王にのし上がった。私は、しかし、池田大作の生き方を、決してうらやましいとは思わない。  ところで池田大作が、戸田城聖のもとで生命がけで身につけた金銭哲学はどんなものだったか。

戸田の金銭哲学 葉っぱ(信仰)をお札に!

  昭和四十三年二月十日の社長会で、池田大作はこう語っている。 「戸田先生は葉っぱをお札にする。本当にする。そうしなければ広宣流布は出来ない。必ずそうする。広宣流布のためならば、葉っぱをお札にしてみせる、と言う戸田先生……」  じつに狐狸のたぐいが人を化かす方法として古来言い伝えられている葉っぱをお札にかえる&法が、戸田城聖が池田大作に伝えた秘伝だったのであり、この秘伝は、現在の創価学会の錬金術≠ノも見事に生かされているのである。

 この、葉っぱをお札に≠フ術は、倒産した東京建設信用組合について、大蔵省から組合解散の同意について内示を受け、事態収拾のメドが立った頃から実行に移される。  「事業だけを再建しようとしてもうまく行かない。そうだ。創価学会の会員を増やし、これと車の両輪の形で事業をやれば良いのだ」  戸田城聖は、改めてその思想の原点に立ちかえった。  戸田城聖は、東京建設信用組合の整理を進める一方で、昭和二十五年秋には秘かに別会社「大蔵商事」を設立し、やはり金融業を開始していた。最初の代表役員は、矢島周平氏。牧口門下生で、日本正学館では「ルビー」の編集長を、そして創価学会の理論誌「大白蓮華」初代編集長をつとめ、一時、戸田城聖にかわって創価学会理事長をつとめた。後に戸田城聖とたもとを分かち、出家して日蓮正宗僧侶となり、埼玉県大宮市で日蓮正宗寺院住職となった。二代目代表が和泉覚氏。現在、牧口門下生の数少ない生き残りとして、最古参の副会長であり、公明党参議院議員にもなった。  だが、彼らはただの名前だけで、会社の実権は、専務理事兼金庫番の森重紀美子がにぎり、そしてその背後で顧問であった戸田城聖がにぎっていた。

 森重紀美子は、柏原ヤス(元公明党参議院議員)とともに、戸田城聖の公然たる愛人であった。この大蔵商事で、池田大作は、当初最末席の営業部員兼雑用係であった。  戸田城聖と森重紀美子が愛人関係となったのは、戦前のことであり、二人の関係は永い。間に子供が一人(光生氏)いた。  当時、三十代はじめで、しっかり者の彼女に、戸田城聖は全幅の信頼を置き、会社の実権をゆだねた。海千山千の戸田城聖は、古い信仰仲間であった矢嶋氏や和泉氏さえ信用せず、肉体関係でつながり、子まで作った紀美子だけを信用したのである。この習性は、後に白木屋事件∞ホテルニュージャパン≠ネどで知られた横井英樹氏に似ている(横井氏は、暴力団の安藤昇氏らに襲撃された際、男のボデーガードが机の下にもぐり込んで役に立たず、妾の一人だった女性秘書だけが敢然と横井氏を身をもってかばったことから、以後、関係した女性達をボデーガードとして連れ歩いた)。  池田大作は、この森重紀美子に全力をあげてとり入った。十才余りしか年の違わない彼女を「おかあさん」と呼んで甘え、子犬のように仕えた。彼女の背後に戸田城聖がいることを見越してのスリ寄りである。彼女に信用されることは、即戸田城聖に信用されることにつながる。ゴマをすられて、森重紀美子も悪い気はしない。池田大作に特別に目をかけた。  金融業のような仕事は、女では出来ない部分が多々ある。それを任せられる男として、森重紀美子は次第に池田大作をたよりにし、戸田城聖に推挙した。

大蔵商事と池田大作

 大蔵商事は、東京都新宿区市ヶ谷田町の小さなビル(今は、ソニーミュージックエンターテイメントの本社ビルが建っている)の二階の六坪ばかりの部屋に本社を置いた。ほとんど同じ頃、聖教新聞編集室を同居させている。更に、昭和二十七年四月には、創価学会本部市ヶ谷分室(戸田城聖の専用事務所)を隣室に設けた。  創価学会では、「会長(今では池田大作)のいるところが常に本部」という仕組みになっている。そのために池田大作は、庶務室、聖教記者をはじめ大勢のスタッフをつれて歩くのである。この伝統は戸田城聖の頃からのものであり、従って、戸田城聖の専用事務所、大蔵商事、そして聖教新聞社が集中した市ヶ谷の小さなビルこそ、戸田時代の創価学会の中枢基地であった。  大蔵商事には、池田大作の他に若い社員として星生務(後に学会本部経理局長、総務)が経理を担当していた。

 大蔵商事は、発足して間もなく、池田大作が牛耳るところとなる。昭和二十五年十一月には、はや営業部長に昇進し、翌二十六年には取締役に就任する。そして、後に彼の忠実な金庫番となった中西治雄が、池田大作の直属の部下となった。池田大作は、星生務と中西治雄を両腕として大蔵商事を完全に支配する。  昭和三十年代後半から四十年代、創価学会の内閣官房長官に当たる席務室長≠ネどを歴任、「陰の会長」といわれるほどの権勢を握った中西治雄は、池田大作と二人三脚で大蔵商事の営業を仕切った。  後に、池田大作は創価学会会長就任後、二人をつれて創価学会事務局にのりこむ。星生務は学会本部会計を、中西治雄は聖教新聞等収益事業の会計と池田家の財産と裏金の管理を担当して、会の金の流れをまず支配したのである。

 昭和四十五年、私が創価学会本部に入って行なった改革の中には、二人の財務担当者が池田大作の指示で行なって来たデタラメな資金操作を整理することもふくまれた。当然、二人と衝突することも多かったが、時流が幸いして、システムは、私の主張する方向へと動き、私が育てた若い優秀な実務家が、創価学会の表≠フ経理を仕切るようになった。しかし、地下の水脈を流れる裏金∞池田家及び池田大作の個人資産≠ノ関しては、中西治雄は、頑として支配権を手放さなかった。  それでも、業者からリベート受領の現場や、外郭会社の交際費の使い方、池田大作への贈与品の処分等を通じて、その一部はかい間見えていた。

 一方、学会本部、公明党関係の裏金ルートは、私が北条浩副会長のそばにいたおかげでそのほとんど全容を知ることができた。  中西治雄は、その後、私や原島嵩氏の造反(昭和五十五年頃)と時を同じくして池田大作との間が冷え、やがて一線から自ら身を引いた。その原因は、池田大作の命令で勝手に板本尊をつくらされた「ニセ本尊模刻事件」の実行者としての自分にいやけがさしたためと見られる。余談であるが、中西治雄が八王子の土地取引をめぐって業者から受取ったリベートを、池田大作が専用室にしまっていたところ、昭和五十二年、国会での追及をおそれて、全国一斉に専用室をとりこわした際、金庫ごと聖教新聞社地下倉庫に移した。これを、中西治雄が引退した後、何も知らない職員が粗大ゴミ≠ニして捨ててしまった。  平成元年六月三十日、横浜のゴミ捨て場から一億七千万円入りの金庫が捨てられているのが発見された事件のこれが真相である。  私は、写真で見た風呂敷のもように見覚えがあり、リベートを贈った業者に確認したところ、「金額も、風呂敷も、あの時のものだ」との回答を得ている。  この事件は、中西治雄が、外郭会社の利益をクスねて着服したものを金庫に入れたまま忘れていた、ということで、除名処分になってドロをかぶってフタをした。  その後、今日まで、中西治雄は沈黙をまもり、その代価として生活は保障されゴルフ三昧の優雅な生活を送っている。  星生務は、正本堂募金の処理をめぐってミソをつけたのがケチのつきはじめで、次第に会内での権勢を失い、今ではほとんど目立たない。

大蔵商事のしりぬぐいに正本堂御供養金

 さて、大蔵商事の営業はどのようなものであったか。  話は少し先にとぶが、私は、昭和四十六年頃、大蔵商事の後身である「大同商事」の負債整理を、中西治雄らと共に行なった。 池田大作は、創価学会三代会長に就任した後、和泉覚、星生務、中西治雄らを引きつれて創価学会本部に乗り込んだ。そして、大蔵商事とは絶縁する。二度と汚い仕事などするものか  残された大蔵商事は、森重紀美子と、その甥である森重章が経営するところとなり、創価学会とは切り離される。だが、昭和四十年代の初めには、脱税で国税局の手入れを受け、ダメージを受けたばかりか、経営の基盤であった創価学会から切られたため、次第に営業不振に陥り、多大な負債をかかえて、森重章は、池田大作に泣きついた。それは、  「大同商事(大蔵商事)が倒産したら、古くからの債権者(学会員もかなり残ったいた)がさわぎ、池田先生の名前も出て創価学会にも迷惑がかかるでしょう」 という、どうなっても知りませんよ≠ニいわんばかりの投げ出し方であった。  池田大作の指示で、森重紀美子に連絡が行ったが、  「まことにすみません。御迷惑をおかけしますが、よろしく」 と逆にゲタをあずけられる始末。  森重紀美子の一人息子光生は、「和光商事」という会社の社長であったが、これは、聖教新聞社の用紙を一手に扱う会社で、すべての製紙会社がこの会社をとおして創価学会関係の紙を納入する利権会社≠ナあり、莫大な利益を保証されていた。これは、池田大作が、大蔵商事時代、自分をひいきしてくれ、今日の地位をきずかせてくれた森重紀美子に対する感謝のプレゼントであった。  戸田城聖の本妻、幾子に対しては、死後、ただちにトラック二台で邸に乗り込み、戸田城聖の遺品と称して目ぼしいものをすべて引き上げる、という非情な仕打ちをした池田大作が、森重紀美子には、惜しげもなく創価学会の利益の分け前を終生与えつづけた。このアメ≠ニムチ≠フつかい分けのきびしさは、池田大作の人心掌らん術の特徴である。

 池田大作は、  「これだけ利益を分けてやっているのだから、大同商事のあと始末くらい自分でしたらどうか」 と言いたかったのだが、あにはからんや、森重光生は、銀座の帝王≠ニ呼ばれた遊とう児で、あらんかぎりの金を、女遊びにつぎ込み、和光商事には一文のたくわえもなかった。  あきれ、怒った池田大作ではあったが、背に腹はかえられず、私達に善処を命じる他なかった。  私は、森重章らに会って、会社の実情調査を行なった。  森重章は、自らの放漫経営はたなに上げて、  「私は、池田先生らがおいしいところを全部吸って行なったカスの会社を引き受けさせられたんです。当時からの貸金のコゲ付きもまだ残っているし、それに、学会は、その後全く面倒を見てくれないばかりか、有力な出資者に手を引くようにしむけたんです。」 と、うらみつらみを述べ立てた。  創価学会の発展とタイアップして伸び、維持されて来た会社だけに、創価学会と切り離されたことが致命傷になったことは当然である。だが、森重章らは、それにもかかわらず放漫経営と浪費を続けた。  「母が、池田大作のめんどうを見、引きたてたおかげで池田大作は会長になれた。学会が森重一族の面倒を見るのは当たり前だ」 という態度を露骨に見せながら、森重章は大蔵商事以来の由来と経営の実態を私に話した。

 大同商事は、信じられないほどの巨額の負債をかかえ、その債権者の多くは学会員であった。また、池田大作や中西治雄が開拓した出資先も多くのこっていた。  しょせん、創価学会に寄生していたにすぎない会社が、寄生主である創価学会から切り離されて生きていけるわけがないのである。森重一族は、大同商事を投げ出し、創価学会にゲタを預ける気でいたから、どうしようもない。  私は、部下の弁護士とともに、大同商事の整理を行ない、再生させる作業にとりかかった。社名を「日章」に変更し、社長や役員も、創価学会青年部にとりかえた。監査役には、私の部下の弁護士が入った。  肝心の負債の穴うめ≠ヘ、中西治雄の仕事であった。

 中西治雄は、その財源をまず「正本堂御供養金」にもとめ、続いて学会本部に求め、更に日蓮正宗に求めた。

 一、正本堂、及び同建立事業にともなう末寺建設の際の、災害保険≠すべて「日章」の扱いとし、手数料収入あげる。

 二、創価学会関係の施設の災害保険を一手に扱わせ、手数料収入をあげる。  三、正本堂建立にともなう記念品やグッズ、本山売店での販売品、創価学会の使う物品の納入を「日章」経由で行なう。

 四、会員用の物品をとり扱わせる。

 こうした方法で、中西治雄氏は、「日章」となった大蔵商事の赤字の穴うめをした。その金は、先述のとおり、正本堂募金(三百五十五億円)日蓮正宗、そして創価学会から支出され、或いは会員のフトコロから出た。

 結局のところすべて学会員の負担で行なったのである。  これらは、すべて、池田大作の決裁と指示で行なわれた。 社長会記録には次のような記述がある。  

「(念珠)一手に買い取り、卸せば良い。もう内の人達が使うもので、外郭に儲けさせる事はない。線香もローソクも東洋精光でやんなさい。正本堂のみやげものも作れ、とにかく作るものは全部東洋にやらせる」(第24回)

 「一連50円の儲けとしても、10年間に1、000万本としても5億だ。年間5、000万だ、大きいよ」(第29回)  

「北海道 絵はがき6万売った。うまいことをした。来年は栞を5枚一組で50円位で売る」(第47回)  

「杉本君(栄光建設=注)の方はどうだ。東海研修所、小さいがやんなさい」(第48回)

 「白糸の近所、5、000坪のものを建てる、それも栄光でやれ」(同)

 「(本山バザール)1、900万売り上げるか、それはいい。しっかりやれ」(第51回)


 金に関することは、こうした細かいことまで、池田大作は自ら指図していたことを証明する記録である。  正本堂が落成した昭和四十七年頃学会員であった人達は、記念≠ノもらったり本山売店で買ったりした金盃=iもちろんメッキである)などのグッズを覚えている人も多いだろう。その代金の何割かは、大蔵商事の赤字の穴うめに使われたのである。  現在も、「日章」は、東京都千代田区富士見二ノ三のビルの二階に本社がある。社長の佐藤武一は、創価学会の古参幹部である。取締役には、森重紀美子の一人息子、光生の妻裕子の名がまだ残っている。これは、光生の死後、その遺族を池田大作が面倒を見ているのである。監査役には福島啓充弁護士がずっと務めている。法学委員会出身で、数年検事をつとめたあと弁護士になり「日章」の整理を担当した。現在創価学会副会長であり、創価学会の訴訟事件の多くの主任弁護士を務める。

 創価学会系総合雑誌「潮」には、次のような広告を出している。  平成七年十二月四日、参議院宗教法人等に関する特別委員会に秋谷栄之助が参考人として呼ばれたとき、共産党の橋本敦議員は、創価学会施設に関する損害保険契約をエサに保険会社に対し、公明党への選挙協力を強要していることについて、  「明らかに公選法違反の利益誘導罪が、特定の創価学会の巨大な財産の保険契約との関係、その特別の利害関係を通じての誘導行為に当たるということで、これは公選法違反の利益誘導罪に当たるということは、私は間違いない事案だと確信して話をしているんですよ。

それでもう一つ、秋谷さん、重大な問題は、この問題の基礎になっている境内建物、礼拝所、その他創価学会の資産は、これは非課税の資金で蓄積された大事な資産でしょう。そして、礼拝所は固定資産税非課税の建物でしょう。二重に非課税の建物が、創価学会のこの利益誘導によって特定政党支持活動の公選法違反の犯罪のまさにその母体になっていることは、これは社会的に重大な問題じゃありませんか。こういう問題について率直にあなたは反省されないのかどうか。まさに創価学会の責任者として徹底的に調べなさいよ。徹底的に調べて国会に報告する、それぐらいのことはしなさいよ。どうですか。」と追及した。(議事録引用)  これらの保険契約も、日章をとおして行なわれている。

 平成六年十一月二十五日号「週刊ポスト」で、「長期総合保険をめぐって学会及び聖教新聞社と東京海上の間で交わされている十億二千九百六十二万六千九十円の保険の不正契約の一件」がスクープされているが、同契約の取扱代理店はすべて「日章」である。「日章」は、二千五百万円の手数料をかせいでいる。(野田常雄氏著「池田大作の金脈」より)  大蔵商事、大同商事、日章と、社名を転々と変えながら、池田大作の「葉っぱをお札にかえる工房」である会社は、ひっそりと創価学会への寄生をつづけているのである。それは、表立って「関連企業」と名乗ることを許されず、日陰でつながっていて、あたかも、かつての主宰者であった戸田城聖の愛人、森重紀美子さんの立場を象徴するようでもある。

 池田大作は、後に、熱海の東海研修道場の庭園で、一ぱしの俳人気取りで私に言った。  「どうだ。萩の花は風情があるだろう。どこか、さみしげで、萩は、二号さんの花だな。私は萩が好きなんだよ。」  好きなのも当然だろう。  池田大作は、戸田城聖の二号さんに「お母さんお母さん」とオベッカをつかい、引立ててもらったおかげで、創価学会会長への足場を固めることが出来たのだから。  池田大作が、後日  「戸田先生は、何で私に金貸しのような汚い仕事をさせたのか……」 と怨みつづけるほど汚い仕事をつづけた舞台の大蔵商事―今日の「日章」を、池田大作はしかし切りすてることはできない。日陰で、養い続けなくてはならない。  池田大作にとって、創価学会が本妻なら、大蔵商事―日章は、正に二号にあたるといえよう。  要するに、創価学会からうまい汁を吸う会社を切りはなしたが、結局、元のように寄生状態にもどしただけである。

池田営業部長、色と欲の二筋道

 大蔵商事のスタートの話から、いきなり今日の結論の話へと飛んでしまったが、それは昭和三十四年に入信し、昭和四十五年に創価学会本部中枢に入った私が、なぜこの会社とかかわりを持ったかということを説明するためである。本論は、あくまで、池田大作が大蔵商事で何をやったかである。

 「要するに、金を持っていそうな学会員に目をつけて金を借り、それを貸しつけて利ざやをかせぐ仕事でした」  「池田先生は、金を借りてくるのが実にうまかった。」  森重章は、私に語った。  裕福そうな学会員、或いは、学会員の紹介で資産家のところに、池田大作と中西治雄がしげしげと通い、  「月三分(年利三六%)の利息を払います。どこに預けるよりも有利ですよ」 と言って言葉巧みに出資を勧誘した。

 その頃の二人は、二十二、三才。さっぱりと刈り上げたヘアスタイル、地味だがキチンとした身なりで、誠実さを演出した。  東京安全信用組合の時代は、世間のだれも金を出してくれなかったが、創価学会≠バックに、  「実は、戸田先生の事業です」 といえば、話は違った。  創価学会では、戸田城聖の権威は絶対的である。しかも、創価学会の背後には、富士山麓に七百年の歴史をほこる日蓮正宗大石寺の存在がある。

 池田大作には、さらに、奥の手があった。  森重章はいった。  「役職や議員バッチの効き目は抜群でしたよ。私には、そんな権限はない。」  気前良く出資してくれた学会員は、後に戸田城聖に進言して無条件で創価学会の幹部に登用し、そして市会議員、町会議員等に推薦するのである。  軍隊組織をまねた創価学会において、幹部は絶大な権勢を振るう。特に大幹部≠ニいわれる、支部長以上、部隊長クラス、それと同格の監事クラスになると、数百、数千の会員の上に君臨する。一つ階級が違えば、下の者は上の者に絶対服従させられる。幹部達にとって、会合のとき壇上のヒナ壇≠ノ上れるか否か、序列はどうかということは、最大の関心事の一つである。  会員の信仰心と日蓮正宗の信徒団体としての創価学会への信用、そして役職や議員の肩書きによる欲望の刺激の効き目は池田大作自身驚くほどであったらしい。

 葉っぱをお金にする≠フ葉っぱ≠ニは、他ならぬ宗教∞会員の信仰心≠フことであったわけである。  池田大作の営業に協力したおかげで本人や息子らが創価学会で出世したり地方議員になったりした例は、神奈川県のY氏一家をはじめ数え切れないほどいた。  とりわけ顕著だったのが、埼玉県大宮市の松島勇氏一家であった。  国鉄大宮機関区に勤めていた松島氏は、池田大作の勧誘に応じて出資に応じたばかりか、機関区の仲間や同僚達に働きかけてその退職金や共済金までも出資させることに成功した。大蔵商事にとってその利益は、一時は決定的といえるほどで、池田大作は、この仕事の成功で、大蔵商事の中心者にのし上がったのである。  松島氏は、やがて支部長、理事、副理事長と出世し、創価学会の推薦で大宮市の市議会議員に出馬、当選した。  松島氏は、組織のオルガナイザーとしては最低で、いつもトラブルをおこしており、その収拾に、北条浩ら最高幹部は手を焼いたが、松島氏がどんなにヘマをやろうと、また不公平、不正を働こうと、更迭されることはなかった。池田大作が、更迭を許さなかったのである。

 池田大作は、中西治雄と二人で、そしていつの間にか単身で、仕事にかこつけて松島家に足しげく通うようになる。  松島家には、当時の創価学会内で有名だった才媛が二人居た。姉が郁子さん、妹が通子さんである。姉は、藤原行正氏(元公明党東京都議会議員、同都議会幹事長、後に池田大作に造反)に嫁ぎ、妹は、現在、渡部一郎(元公明党代議士)の妻である。  池田大作は、とりわけ妹の松島通子さんに気があって、通子さんの方もまんざらではなく、やがて二人は深い仲となった。  通子さんには、当時青年部長だった辻武寿も執心で、同氏が松島家を訪れ、通子さんの手を取ってメンメンと口説いていたところを婦人の信者に目撃されている。

 だが、創価学会での役職がはるかに上の辻氏を打倒して池田大作は、恋の勝利者となる。その勝因は、池田大作の金力≠ナあった。  この頃、二十三、四才の池田大作の月給は、月二十万円であったという。当時の総理大臣の月給が十一万円で、国家公務員の初任給が七千六百五十円であった。  ちなみに、私がそれより十数年後に司法修習生になった時の月給が、特別手当を加算しても二万七千円であった。それでも人にうらやましがられたし、弁護士になって、月収十万円にこぎつけるのに、二年ばかりかかった。

 現在の価値に換算するとどのくらいになるだろうか。おそらく、五百万円は下らないのではなかろうか。  さらに、社長会記録(六十九年六月一日)によれば、 「三年かかってかせいだ歩合のお金。私の貰い分が二百万。今(昭和四十三年〜四年頃)の金にすると数千万円になるな。それで先生(戸田氏)の借金を返した」 という。  池田大作は、この金を、創価学会のこれはという幹部を手なづけるのに使う、そしてまた、目をつけた女性を落とすためにつかった。

 当時、松島氏宅の三畳間で、池田大作が素っ裸で仁王立ちになり、通子さんにタオルで身体をふかせていたところを小沢よねさんら二人の婦人会員に見られている。二人は、この事実を月刊ペン℃膜盾フやりなおし裁判の法廷で証言したが、創価学会側は通子さんの弟らに偽証させて、  「三畳間など、当時なかった」 と主張し、二人の証言を弾がいした。裁判所は、なぜか二人の証言を正面をから取り上げずに隈部氏に有罪を宣言した。

 だが、後日、造反した竜年光氏(元創価学会総務、公明党東京都議会議員、都議会副議長)は、  「私は、当時、松島氏の選挙の応援などで松島家に行っているが、三畳間はたしかにあった」 と証言している。  また、通子さんの姉、郁子さんの夫、藤原行正氏は、私に、  「月刊ペン事件≠フ時、私は学会本部によばれ、秋谷氏(現会長)、八尋弁護士(現副会長、ルノワール絵画疑惑の中心人物)らから、三畳間なかった≠ニいう偽証をたのまれたが、私はわからんし、女房や母は、法廷に出たら何を言うかわからんですよ≠ニ答えたら、あきらめて、弟にたのんだ」 と語っている。

 色と欲の二筋道を共に満足させてくれる大宮市の松島家は、池田大作にとって極楽≠フ地であったに違いない。  戸田城聖は、愛人の柏原ヤスさんを参議院議員にしたが、池田大作はこれにならって後日、愛人の通子さんを衆議院議員にしてしまった。  これも、池田大作流アメとムチ≠フ論功行賞の典型であり、創価学会私物化の典型である。  「広宣流布のため」「王仏冥合のため」と言って、必死の選挙運動をさせられた学会員こそ良い面の皮である。

 余談であるが、池田大作は、大蔵商事時代に自分に金をつぎ込んだ者の他に自分に貞操をささげた女性とその一家を、ことの他手厚く遇している。彼女や彼らが、池田大作の寵愛を鼻にかけて、やりたい放題をしても、だれも咎めることはできない。そんなことをしたら、逆に池田大作にあることないこと言いつけられ、その結果、理事会などの席で立たされて池田大作から目の玉が飛び出るほどドヤされるからである。  さて、戸田城聖から、金融業の奥の手を直々に指南され、腕ききの営業マンとなった池田大作は、創価学会員という願ってもないマーケットを与えられ、いかんなくその力を発揮した。  やがて、聖教新聞にも広告をのせるようになる。  

高利貸池田大作取り立て≠フすご腕

  信仰心≠ニいう葉っぱ≠月三分≠ニいう高利でくすぐり、出資金≠ニいうお札≠ノ替えることに成功した大蔵商事は、その金を月七分∴ネ上で貸しつけ、或いは月一割≠ニいう高利で手形割引にまわした。

 現在、年利一%台の預金金利が常識となっている時代には、一般庶民には考えられないような高利の世界である。だが、終戦直後のインフレ期からようやく抜け出そうという昭和二十五年当時では、当然といってよい金利であるし、現在でも、暴力団金融、町金融では、月五分、月八分、といった金利は、むしろ良識的ですらある。トイチ=i十日で一割)とか、カラス銭=iカラスがカーと鳴いたら一割上るという、日歩一割≠ニいった金融もいまだに根強く存在しているのである。  高利≠ノは、貸倒れに対する危険保障がふくまれる。貸倒れになる確率の高い金融ほど利息が高いのである。

 つまり、大蔵商事の貸付金利は、当時の経済情勢からすれば、リーズナブルなものであったのではないか。そして、その金利で利益を上げるということは、回収の確実性≠ェ必要である。貸しつける元金を確保するのも大仕事であるが、貸付けた金の回収は、もっと大仕事である。だからこそ、弁護士や、取立て屋や、更には暴力団などがそこでシノギをしている。だが、こうした取立て職人≠つかえば、コストは飛躍的にはね上る。少々の利息など吹きとんでしまう。

 金融の営業マンの腕の見せどころは、まさに「取り立て」にあると言えるのである。  貸し出すときの調査、法律手続、担保、そして、コゲついた時の対応。  先述の森重章は、  「それは、池田先生は、群を抜いていましたよ。だれも及びませんでした」 と語った。  学会員から金を借り入れる時の、ニコヤカで礼儀正しい青年が、取り立てる時は、冷酷非情に徹しなくてはならない。

 よく、  「寝ている病人のフトンをはがして行く」 とか、  「ナベ、カマまで持って行く」 とかいわれるが、それに似た徹底さがなくては、金融業はやっていけない。  東京安全信用組合の失敗や教訓として、戸田城聖と池田大作は、貸出先を厳選した。聖教新聞の広告を見て、倒産間ぎわの学会員が大蔵商事を訪れても初めから相手にされなかった。  「うちは、あなたのような人が利用するところではありませんよ。利息は高いし、一度借金地獄に入ると抜けられなくなります。悪いことはいわないから、地道に努力しなさい。あなたのために言うんです」  会員をいたわるような口調でていねいにことわられる。  ことわられた会員は、  「戸田先生は、商売気抜きでそこまで私のためを思って下さる」 と逆に感激する。  その一方で、回収の見込みがあり、或いは担保の充分ある相手にはどんどん貸し付ける。それでもコゲついたら、容赦なく担保を流す。足りなかったら、「寝ているフトンをはがす」こともやる。

 こういう仕事の過程で暴力団など裏の組織との接触も当然生じる。  終戦直後のインフレ、そして次にデフレ。戦災で打ちのめされていた日本経済に、チャンスが訪れていた。  昭和二十五年から七年にかけての朝鮮動乱は、我が国に特需景気≠もたらし、経済は一気に立ちなおりはじめた。  「一ヵ月たつと物価が倍になり、お札の値打ちは半分になる」 といった時代。  「ものを作ろうにも金も資材もなく、作っても売れない」 といった時代。  それをしのいだ後に、  「作りさえすれば売れる」 という時代が到来したのである。  町工場も企業も、設備投資と増産に走り、そしてそれがもうけにつながった。強い資金需要と好景気の中で、大蔵商事にとって有利な貸付先に不自由せず、しかも倒産とか貸倒れといったケースが少ないという経済状況は、願ってもないことであった。

担保品売りさばく東洋精光(物産)

  その中で、戸田城聖は、更に抜け目なく手を打った。  貸出し先の会社を強引に乗っとると、その会社で、大蔵商事が引きあげて来た担保流れの品を、学会員向けに売りさばくことを始めたのである。  これが「東洋精光」後の「東洋物産」であり「社長会」のメンバーで記録係の一人をつとめたとされる木村靖氏は、その社長である。  もっとも、「東洋精光」のスタート時は、社長は北条浩であった。後の四代会長であり、池田創価学会の大番頭として常にbQとして君臨した人物である。

大蔵商事=池田大作、東洋精光=北条浩と、三代、四代会長がいずれも創価学会本体からではなく、外郭会社から出ていることは、まことに興味深い。  北条浩は、小田原の北条早雲の子孫で、戦前の侯爵・貴族院議員の家の長男である。海軍兵学校を卒業後、銀河≠フパイロットになり、終戦を迎えた。戦後は、一介のサラリーマンとして北陸路に勤務したりしていたが、柏原ヤスの折伏で創価学会に入った。  戸田城聖は、北条浩の家柄と人格に目をつけ、青年部発足時には、第一部隊長≠ノ任命している。このとき、池田大作は、竜年光第四部隊長の元で班長だった。

 この北条浩を東洋精光の社長にすえ、池田大作ひきいる大蔵商事と営業成績をきそわせたのである。  大蔵商事が学会員から集めた金を、高利で貸しつけ、運用する。その際生じた担保流れ品を中心に、いろいろな物品を東洋精光で、学会員に売ってもうける。  東洋精光は、学会幹部のセールスマンをつかって、学会員に、ナベ、カマなどの日用品から、電気製品にいたるまで、何でも売っていた。それも、利幅の大きい、二流、三流のブランド品であった。

 社長会記録によれば、池田大作は、この東洋精光に対して、もっともひんぱんに口出しし、実質的な社長兼営業部長の観がある。  私が中西治雄に聞いたところでは、  「戸田先生は、池田先生と北条さんに、大蔵商事と東洋精光でもうけをきそわせていました。しかし、いつも池田先生が上でした」という。  池田大作は、金融業もさることながら、物品販売にも異常な関心を示している。大蔵商事から手を引いた後は聖教新聞等の出版収入と外郭会社の物品販売が池田商法≠フ中心になる。それは、後刻、「社長会記録」の解析によって明らかにする。  要するに、東洋精光もまた、創価学会と一体不二の関係の企業であり、池田大作が葉っぱ¢ヲち信仰心≠お札にかえるための工房であった。この大蔵商事と東洋精光で、当時、創価学会の首脳は養われていた。

金をにぎるものはすべてを支配する

 池田大作が田中角栄氏らと同じような支配構造をつくっているのは、この時の経験によるものである。  聖教新聞などによる出版収入で職員が養えるようになるには、さらに二〜三年の月日が必要だったこの時代、大蔵商事の利益で養われる創価学会首脳が、次第に池田大作に頭が上らなくなるのは、当然のなりゆきであり、池田大作は、大蔵商事の実績を足場に創価学会の中枢にのし上っていく。  昭和三十五年(一九六〇)、会長就任直後に出席した神奈川県横浜市鶴見区の幹部会で、池田大作は次のように述べている。

 「昭和二十五年頃は、毎日のように仕事で鶴見に来ていた。戸田先生は会長になることを嫌って罰を受け、事業面でも大きな困難にぶつかっていた。そのとき、ある人から戸田なんかに使われるのはやめたまえ≠ニいわれたが、彼は現在、半気違いのようになってみすぼらしい姿で生活している。また戸田につかないでおれの商売をやれ≠ニいった者が、その後はさびしそうに小さな店をもって暮らしている。」  

また、昭和二十七年三月十日付聖教新聞には  「池田大作君、白木かねさん、御結婚お目出とう」 という見出しで、次のような記事が掲載されている。  「池田大作君と白木かねさんの婚約が発表され、媒酌は飛躍を続ける大支部蒲田の総帥・小泉隆理事(中略)」  「数年間戸田先生に忠実に御仕えて朝から夜迄縦横に全東京を駆けている姿は実にたくましい。苦難の二十五年も先生の陰の一人として戦い抜いて来た」  「同君は常に言う『天下を取ろう』と、大志努力の人池田大作君、御目出とう」(このかね婦人も、後日「香峯子」と改名している。太作、かねの夫婦では、大教団のトップとしてはいささかサマにならない。大作、香峯子と、それぞれ「名前の整形手術」を行なったわけである)。

 この二つの引用にも明らかなように、この当時、創価学会の活動も戸田城聖の事業活動も同一視され、まさに、後の創価学会と公明党のように、一体不二≠フ関係にあった。切りはなしても両方が死に、また一方がつぶれたら他方も倒れるという、シャム双生児の関係である。  「戸田先生は、五〇〇〇万集めろ、それで証券会社でも何でもやって、学会がどうなっても、やって行けるようにせよ、とおっしゃった。その時は集められなかった」(社長会記録昭和四十六年十二月三十一日)  戸田城聖も池田大作も、もうだめかも知れぬ≠ニ思った昭和二十五年十二月思い出話である。  だが、幸か不幸か創価学会はだめにならず、その会員の信仰心を利用することで、戸田城聖の事業は立ち直った。  戸田城聖は、大蔵商事の利益で負債を返済するとともに、創価学会運営のための経費をねん出したのであった。そして、死亡時には、八千万円の私財をたくわえていたのである。  「私もすべて『世界一』を目ざして来た戸田先生のもとで、それは真剣に勉強した。生命をかけての努力をした。その努力があって今の私がある。」(平成六年一月二十六日、於創価大学)  池田大作が戸田城聖から生命がけで学んだ葉っぱをお札にかえる術≠ヘ、今も創価学会の中に脈々と生きつづけており、貪欲に増殖して日本列島を呑み込もうとしているのである。  昭和二十五年頃から、戸田城聖は、行きづまった事業にはダミーを立てて一線から身を引き、かわって創価学会へと軸足を移した。以後、創価学会はすさまじい勢いで進撃を開始したが、それにともなって多くのトラブルも生じた。

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