自由の砦 9月10日号 第104号

 

「政教分離」原則の“風化”を許すな!!

 靖国参拝で見えた公明党の矛盾点
 「連立離脱」は?「政教分離問題」は?

 
 参拝騒動でかき消された憲法論議
      首相の参拝は国家の中立性に違背
 八月の政局では、小泉首相の靖国参拝の是非が話題の中心を占めた。
 小泉首相は、「八月十五日に、総理大臣として靖国神社に参拝する」と言明し続け、有言実行≠内閣のモットーとする立場からも、終戦記念日の靖国参拝は必ず行なわれるものと見られていた。
 これに対して、野党や宗教界、国民の間に、反対の声があがり、さらに、近隣諸国からも一斉に非難の声があがった。
 とりわけ、太平洋戦争によって、国土を日本軍に蹂躙(じゅうりん)された中国と、長い間、植民地支配に苦しめられた韓国からは、激しい反発の意志が表明された。
 もし、小泉首相が公約どおり八月十五日靖国参拝を強行するなら、日中、日韓の関係は、一挙に悪化――国交断絶に近い緊張がもたらされかねない情勢となった。
 自民党内や閣僚の中からも慎重論が強まり、結局、小泉首相は、八月十五日という日を外し、八月十三日に繰り上げて参拝するという妥協をして、公約≠ニ世論とのバランスを取らざるを得なかった。
 中国・韓国は、小泉首相が靖国参拝を強行したことに対しては非難を表明したが、しかし、八月十五日≠ニいう、日本にとっては終戦記念日、そして中・韓両国にとっては、それぞれ戦勝記念日∞独立記念日≠ニいう節目の日に、東京裁判で死刑に処せられたA級戦犯を合祀(ごうし)する靖国神社に日本の首相が参拝する、という事態が回避されたことで、いちおうメンツは立ったと見て、それ以上の追及は行なわなかった。
 一方、国内では保守的な勢力から、小泉首相の妥協を不満とする声があがったが、国民の大多数は、穏便な解決を望んでいたから、何となく安心したように見えた。
 小泉首相としては、近隣諸国や党内各派との関係にも配慮し、また、まがりなりにも靖国参拝という公約を果たしたので、一安心というところだが、しかし、有言実行≠ニいうモットーが最初にためされることとなった靖国問題で、妥協≠行なったことで、国民の間に興ざめした空気が拡がり、それは、小泉首相への支持率の大幅低下となって表われた。
 靖国問題は、表面に現われた現象をみれば、右のような経過である。
 この靖国問題は、大騒ぎされた割には、その本質に対する問題提起と議論がほとんどなされていない、という点において、この国の将来に大きな禍根(かこん)を残したといわなくてはならない。
 それは、日本国憲法によって明確に宣言された、国家のあり方の基本を定めた原理である政教分離≠根本から揺るがす重大問題であるのに、これについて、真剣な討議がほとんど行なわれなかった。
 日本国憲法第二十条に明記された政教分離′エ則は、民主主義の根本原則として宣言されたものであるが、我が国においては、さらに、戦前の国家神道を政治権力から完全に切り離す、ということを強調する意味を持つのである。
 戦前の我が国を、挙国一致で戦争に追いやった背景に、神国思想≠竍国家神道≠ェ大きな影響力を及ぼしていたことは、当時を知っている年代の人達なら、だれでもわかっていることである。
 神社・神道に、事実上国教≠ニしての地位が与えられ、他の信仰を持つ人々の宗教活動を圧迫し、さらに、思想・信条の自由を圧迫する結果を招いたことの反省から、政教分離′エ則は、ことさら明瞭に宣言されたのである。
 つまり、わが国の政教分離は、過去に対する反省ということをふまえれば、
国家と神道の分離≠ニいうことが主眼となっている、といってよい。
 五十余年を経過した今日、憲法の規定と現実との間に次第に乖離(かいり)が生じてきたことは、社会が変遷する以上、やむをえないことである。
 憲法は、何が何でも絶対に改正してはならぬ、などというつもりはない。
 しかし、政教分離′エ則は、五十数年が経った今日、ますます重要になり、厳格に守られなくてはならぬ重みを持つに至っている。
 アラブ諸国やインドネシア、あるいは東欧の紛争を見れば、そこに、宗教的対立や、宗教と社会の対立が大きな要因を占めていることがわかる。
 さまざまな人々が共に地上に住む以上、一つの宗教を権力が支持し、これを他の宗教を持つ者に強制したり、税金や制度で保護したりすることは、絶対にあってはならない、ということが、次第にはっきりしてきているのだ。
 総理大臣が、一つの宗教(靖国神社は宗教法人であり、神道にのっとって儀式行為を行なう)の施設に参拝することは、中立であるべき国家機関の在り方に明らかに違背するものである。

  外圧に右顧左眄する日本の現状
       今こそ本質踏まえた憲法論議を
これに対して、
 「靖国神社は宗教ではない」
 「戦没兵士を祀る施設として、本来、国家が行なうべきことを代行しているにすぎない」 などという反論があり、また、
 「死者や先祖を敬うという日本人固有の思想・風俗があり、これを、一概(いちがい)に宗教とするべきではない」 という意見もある。
 たしかに、古来の神社や寺院の成り立ちは、日本固有のものがある。
 豊臣秀吉や徳川家康を神に祭り上げ、また、東郷元帥や乃木将軍を神にした神社もあるし、菅原道真(みちざね)を祀る天神≠ヘ、当初は左遷された道真の怨霊(おんりょう)を鎮(しず)めるためのものだったという。
 だが、政教分離≠考えるには、今日、現在の宗教を客観的に見なくてはならない。
 靖国神社は、我が国の軍神思想≠ノ基づく、れっきとした宗教なのである。
 いかなる由来や事情があろうと、これに特別の意味をもたせて、総理大臣が特別に参拝することは、憲法違反である。
 しかも、それを中国や韓国に言われたから止める、というのは、あまりに主体性がなく、国辱(こくじょく)的ではないか。
 そうではなくて、それが、日本の民主政治を根本から覆(くつがえ)しかねない事柄であるから、靖国参拝は行なうべきではないのであり、八月十五日だろうと十三日だろうと、同じことである。
 マスコミも世論も、目先の利益ばかり追いかけていては、根本を誤ることになる。
 私達はもっと、政治や社会を根底から支える制度や原理をしっかり踏(ふ)まえて論議し、判断することが、今、何よりも必要なことではないだろうか。

  連立維持が至上命題の公明党
       政教一致の学会は民主主義の敵
 ところで、創価学会・公明党は、靖国参拝に反対を表明した。
 その限りでは正しい。
 しかし、それならば、公明党は、小泉首相が靖国参拝をしたあとに、なぜ連立政権に残っているのか。  
  口では反対と言いながら、連立政権にしがみついているということは、創価学会・公明党の反対≠ヘ、国民向けのゼスチャーにすぎず、政権にとどまることの利益と秤(はかり)にかけて、後者を取ったものと考えられる。
 そもそも、戦後、一貫して政教分離′エ則を破り、風化させ踏みにじってきた元凶は、創価学会・公明党ではないか。
 池田大作は、日蓮正宗の教義を手前ミソに解釈して、宗教法人を利用して国家権力を奪取(だっしゅ)するという野望を実行した張本人である。
 政教一致どころか、宗教団体による独裁政権を目指し、洗脳した会員を駆り立てて、政教一致≠フ選挙活動で、自らの手先である公明党を連立政権に送り込んでいるのだ。
 創価学会・公明党こそ、最悪の政教分離′エ則の破壊者であり、民主主義の破壊者なのだ。
 彼らが、靖国参拝反対≠、口先でいうだけで、それ以上の追及ができないのは、政教分離*竭閧突き詰めて論議すれば、自分たちの存在そのものが否定されることになることを恐れているからである。
 結局、創価学会の靖国問題への対応は私利私欲・党利党略≠ノ基づくものであって、民主主義を守ろうというものではなかった。
 今や、首相が憲法違反≠フ行為を率先して行ない、憲法違反≠フ公明党が連立与党に加わって、この国の民主政治を破壊しようとしているのだ。
 この恐るべき民主政治破壊を、マスコミも国民も直視しようとせず、経済不況の嵐にただうろたえるばかりである。
 今日の政治・経済・社会のあらゆる面での行き詰まり、閉塞状況をもたらした原因は、大切な原理原則をおろそかにして、目先の安逸のみをむさぼってきたことにあるのではないか。
 利権漁(あさ)りや汚職が横行し、私利私欲が何よりも優先される風潮の中で、危険なファッショ勢力が、この国を蝕(むしば)み始めているのだ。
 靖国問題は、我が国の根本的な危機を知らせる警鐘と受け止めなくてはならない。
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