レイプ裁判動向              「慧妙」平成9年10月1日号より


 昨秋の衆議院選における大敗北以来、目に見えて失速の様相を呈し続けている池田創価学会――。"笛吹けど踊らず"状態は、全国の組織に蔓延(まんえん)し、聖教新聞の報道とは裏腹に、「地域の会合はとにかく集まりが悪くなり、中味もまるでお通夜みたい」という声が、全国各地から聞こえてくる。

 一方、学会員から"生き仏のように崇(あが)められてきた池田大作は、強姦という、もっとも破廉恥(はれんち)な行為を、被害者である元・学会婦人部大幹部から告発・提訴され、現在、裁判の被告として、世間の注目を浴びている。

 その強姦裁判は、提訴から一年三カ月を経過したが、「最初から池田の負け」と言っても過言ではない法廷展開となっている。

 九月に行なわれた第五回口頭弁論でも、窮地の池田側が、自らの首を締める方向へ走るなど、迷走の度合いを増しているのである。

 ここでは、なぜ、「最初から池田の負け」と言えるのかを中心に、現在の状況を検証してみたい。

 創価学会の元婦人部大幹部・信平信子さんが、「三度にわたって池田大作に強姦された」と、初めて告発したのは昨年の二月、そして、東京地方裁判所に損害賠償請求の訴えを起こしたのは、同年六月のことであった。以来、学会は、機関紙や傀儡(かいらい)雑誌、怪文書、口コミ等を使って、信平さん夫妻に対する激烈な人格攻撃を行ない、「強姦事件は、信平の狂言だ」と宣伝し、池田を庇(かば)ってきた。

 しかし、事件の部外者である学会が、そう大宣伝する一方で、当事者の池田大作本人は、どういうわけか、今日までただの一度も、その件について弁明をしていない。弁明どころか、その事には直接触れることすらできず、一方で、毎回毎回、スピーチのたびに、御書に出てくる「法難」や、キリスト教(!)などの「殉教」の例を引き合いに出し、「宗教を広める時には、法難は付きもの」と力説し続けている。

 たとえば、最近の『聖教新聞』に掲載された「スピーチ」から拾ってみると、

 「私は、誰をも犠牲(ぎせい)にせず、自分が一身に難を受けようという一念で戦ってきた。この心を知っていただきたい」(八月三十一日付)

 「いかなる難があろうと、私は断じて負けない。戸田先生の一番弟子の私である。牧口先生の直系の私である。純真な学会員を守るために、私は耐え、私は戦う」

   (九月十七日付)

 「日本のために尽くした大聖人は本来、世間的な意味からも、『国の宝』のはずである。それなのに、たたえるどころか、迫害し、悪口を流し、策謀をめぐらして、大聖人をなきものにしようとしたのが日本という国なのである。今、御書に仰せのとおりの難を受けているのは、創価学会しかない」(同)

 「庶民は強い。凶暴な国家悪をものともせずに、大聖人をお守りしたのも庶民であった。わが学会は、この庶民の『強さ』と『強さ』の連帯によって、二十一世紀への激流を、断固として勝ち進んでゆく」(同)

といった調子。

 賢明なる読者諸氏には、もうおわかりであろう。要するに、「私は強姦をしていない」と公言できない池田は、「法難」にすり替えることで、遠回しに、しかもエラそうに「私を守って。私を見捨てないで」と、学会員に懇願しているのである。

 池田大作とは、なんと卑劣で、なんと傲慢で、そして臆病な男なのであろうか。

 いまだ「センセーは潔白だ。法難を受けているのだ」と信じている学会員は、なぜ、自分の名声(?)をことさらに自慢してきた多弁な池田が、不名誉の極みともいうべき強姦事件についてだけは、一言も自らの口から語ろうとしないのか、また、なぜ、どんな些細(ささい)な事でも次から次へと訴訟を連発してきた学会が、この件に関してだけは逆告訴しないのか、よく考えてみるとよい。

 そこに、暗黙のうちに強姦の事実を認めてしまっている池田の姿が、はっきりと浮かび上がっているではないか。

 池田が逃げ回っているのは、法廷においても同じである。

 信平さんの訴えに対して、池田側弁護団は、最初から「時効」を主張してきた。いちおう、三回の強姦行為について、「否認する」としたものの、その具体的内容には全く触れず、"第一回目の昭和四十八年の件は二十年の除斥期間を過ぎており、第二回目(昭和五十八年)・第三回目(平成三年)も三年の時効を経過しているというのである。

 これに対し、信平さん側弁護団は、信平さんが今日まで、訴えはおろか、告白することすらできずにいた背景事情を述べ、"時効は、創価学会の宗教的呪縛(じゅばく)から解放された時から進行すると、「消滅時効の進行」(民法一一六条)を主張した。

 さらにその後、池田側は、本年二月の第三回口頭弁論で、「時効」を理由に、中間判決を要求。つまり、強姦事件そのものの審理は一切なさず、時効として裁判を終了してほしい、というのである。

 ここで、読者諸氏に一緒に考えていただきたい。すでに、池田の強姦事件は、マスコミを通じて世間に知れ渡り、海外にまで配信されているほど、注目されているのである。また、ほとんどの学会員は、一抹の不安を抱きながらも、「センセーの身の潔白が、裁判で明らかになる」と期待している。常識的に考えて、池田が汚名を挽回する道は、裁判で身の潔白を証明することしかないはず。真っ向から対峙(たいじ)して、正々堂々と己れの弁明をすればよいだけの話なのである。

 にも拘わらず、池田は、その絶好の機を自ら避け、「時効」を盾に横道から逃げて、事件の存在をウヤムヤにしてしまおうとしている。これでは、「強姦事件」を自ら認めてしまっているも同然ではないか。「語るに落ちた」とは、こういうことを言うのである。

 さて、あくまでも「時効」を主張し続ける池田側に対して、信平さん側弁護士団は、"三回の強姦は、それぞれが独立したものではなく、当初から池田が信平さんに対して行なっていたセクハラ行為の中で起こったものと、セクハラ行為も損害賠償請求の原因(理由)に加え、さらに、信平さんの口を封じようとして今まで継続して行なわれてきた、信平さんに対する激しい嫌がらせも、訴訟の対象にした。つまり、「時効」どころか、池田の加害行為は今日まで続いている、という主張である。

 二段構え、三段構えで「時効」問題を切り崩していく信平さん側弁護団――いよいよ追い詰められた池田側は、今回、九月二日の第五回口頭弁論で、「消滅時効について、証拠調べをし、しかる後に中間判決をしてもらいたい」と、なおも「時効」に執着し、"平成四年の段階で、信平さんの宗教的呪縛は解けていた。それを立証するために、平成四年以降の動向等に限ってだけ、信平さんを尋問したいと申し立ててきた。

 じつに都合のいい申し立てではあるが、これまで、訴訟自体が不当であるとして門前払いを求め、実体審理に入ることを強硬に拒み続けてきた池田側としては、ここで、思わぬ墓穴を掘ることになったのである。信平さん側弁護団のある弁護士は、

 「池田側は、自らドロ沼にはまり込んだ、という感じです。というのも、具体的認否すら拒否するほど、中味に入ることを恐れてきたはずなのに、今回、一部とはいえ、実体審理に入らざるをえない戦術を、自らとってきたわけですから。これをきっかけに、徐々に中味に入っていくことになると思います」と、まさに「してやったり」の余裕の構えで語る。

創価学会が作り上げた虚構や、自らの邪推を元に、時効を立証しようとしている池田側−しかし、真実は一つしかない。あがけぱあがくほど、事態は池田側に不利になっていっているのである。自らの不徳ゆえに追い詰められた、創価学会の首領(ドン)・池田大作‐側近筋から漏れ伝わってくるところによれば、「最近とみに、センセーの日常の挙動がおかしい。(強姦)裁判に異常なまでに怯(おび)えて、一時も落ち着いていられないようだ。周囲の者はまともに話しかける」

池田側弁護団の、その場しのぎ" 迷走"としか思えぬ戦術はそうした池田の、「とにかくどんな手を使ってでも、裁判を終わらせろ」との厳命によるものなのであろう。

また、信平さん夫妻の身辺では、夫妻それぞれが、突進してきた車に跳ねられそうになるなど、続けざまに不審なできごとに遭(あ)っている(本紙二月一日付に詳報)。

さらに一方では、学会関係者が執勘に面談を求めてきたりもしている。しかし、信平さんは、「いままでも、得体の知れない人物が、それとなく金銭による解決をちらつかせてきたり、按触を求めたりしてきたけれど、私はそんな懐柔策にも脅しにも屈しません。池田に、事実を認めて謝っでもらいたい、それだけなんですから」と気丈に語る。いよいよ住境にさしかかった一強姦裁判 今後の展開にも大いに刮目していきたい。


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